オルガンは故郷の歌を奏で
A Song of Home, the Organ Grinds
ジェームズ・ビーモン 作
藤川新京 訳
少年オザンの乗り組む飛行船の武器はオルガンの音色に操られる不気味な猿たちだった。
クリミア戦争を舞台にした血生臭くもカラフルなスチームパンク。
初出
Lightspeed, July 2018
著者紹介
ジェームズ・ビーモン
アメリカ空軍に所属しイラクとアフガニスタンで従軍したのち、ITエンジニアとして働くかたわら創作活動を行っている。短編作家としては戦争やジェンダー、エスニシティを扱った作品を得意とし、初の長編としてファンタジーゲームの中に取り込まれてしまった少年の冒険を描く“Pendulum Heroes” を2018年に出版。
作者ページ
https://fictigristle.wordpress.com/
本翻訳は作者の許可を得て掲載しています。
猿たちは顔の白いノドジロオマキザルだ。小さな生き物。黒い毛が生え、背中を丸めたその体は白い毛の房に飾られた顔や肩と鮮やかな対比をなしている。ロシア人は飛行船をものの十分でバラバラにしてしまう大砲やコロタルと呼ばれる蒸気仕掛けの装甲騎士を持っているが、黒海の一マイル上空で直面することになる多くの危険の 中で僕が最も恐れているのは自分が世話をする猿たちだ。
「ぐずぐずするな」
男が後ろでささやく。
「そいつらは肉も食うんだぞ、坊主」
僕はそっけなくお辞儀をしたがオルガン弾きをまっすぐ見ることはできない。
「はい、先生」
オルガン弾きは夢にまで現れる。彼は首と顔と禿げ頭をいつも白塗りにしている。彼の顔はあばたで覆われている。夢の中では彼の門歯は猿のものと同じく目立ち、目は猿のものと同じく非難するように黒く輝いている。夢は彼がオルガンを奏ではじめ僕が下りてきた猿たちに取り囲まれるところで終わる。
僕が船倉にある六角形の金網で作られた大きな共同の檻に入っても、猿たちは吠えたり噛みついたり糞を投げつけてきたりはしない。水を補給する間じっとしている。いま餌入れにナツメヤシやイチジクや種を入れているときでさえ、身じろぎもしない。猿たちは輝く黒い目で品定めするかのように僕を静かに見つめている。僕はオルガン弾きが満足したかどうか確かめるために振り向くが、彼はもうそこにはいない。
甲板まで上がると遠くの雷鳴に迎えられた。僕は北のクリミアの方を眺める。対空砲火の赤と白の光が夜の水平線に踊っている。
そんなときには、ラマダンまでの七カ月がもう過ぎていてほしいと思う。そうすれば僕は十五歳になる。大人の男になり、大砲が火を噴くところを目にしたり爆発を耳にしたりしても恐怖に震え上がることはもうなくなるのだ。甲板の兵士たちはそれが単なる雷鳴や稲妻、取るに足らない遠くの嵐であるかのように仕事を続けている。彼らは戦いに備えて紺色の外套、黒いブーツ、そして深紅のコサックズボンを身に着けている。頭にはズボンに合わせた赤いフェズ帽が乗っており、彼らが立ち働くのに合わせて黒い房飾りが前後に揺れている。
帆を準備している兵士がおり、飛行船を素早く上昇下降させるためのバラストタンクを確認している兵士もいる。船は遠くの戦場へと進路を向ける前に、よろめく酔っ払いのように左右に傾いだ。船尾の方では四人の兵士がトランペット型をした巨大な真鍮のチューブを旋回させていた。それは吸気配管で、風を飲み込んで甲板の下に送り込み、そこでは船のはらわたが風を食らってエネルギーを作り出しているのだった。
後ろのほう、船尾の向こうの視界の遥か外にはイスタンブールの街がある。
肩に重みを感じる。そこにはきらめく真鍮の指とかがやく銀の拳があった。黒いスーツのジャケットが手首から上の金属を隠している。僕はその手から逃れたいという衝動に抗い、蘇生者アドナンと目を合わせる努力をする。
油でなでつけられて先端が上にはね上がった濃い口ひげを除けば、彼の顔はすっかり剃られており、目は針金縁の眼鏡の後ろで優しげだ。
「キスメットの他に家はないと考えるんだな、今のところは」
アドナンが言う。彼は優しく僕を船首のところ、僕たちの直近の未来の方へと導く。刺すような荒々しい赤と白の光は近づいてきている。
「これがお前の二回目の戦いだな?」彼が尋ねる。
「はい、先生」
金属の手が僕の肩から離れてジャケットのポケットを探り、銀の煙草入れとともに再び現れ、もう片方の手、普通の肉で出来た手が煙草を取り出す。
「気を強く持て、坊主」
彼が煙草に火をつけて言う。長々と気持ちよさそうに吸い、濃い煙を吐き出すとそれは風に運び去られる。彼は僕にその煙草を差し出す。
「上で起こることに向き合え。甲板から下の機関と配管の世界はお前の居場所ではない」
僕は最初の戦いから逃げたのだった。がらんとした猿の檻の隅で、対空砲火の唸りと冒涜的なオルガンの呻きから離れて僕は身を縮めていた。僕の怯懦の報いは血まみれの耳と鼻と、それに加え次は舷側から放り出すぞという脅しという形で現実のものとなった。
僕は喜んで煙草を取る。「ありがとうございます」
最初の一服の前に僕は言う。アドナンはうなずいて歩き去り、僕は煙草の残りを全て自分で吸うことになった。彼は蒸気機関の面倒を見るために甲板の下へと向かう。僕は冷たい水に飛び込む前のように、思い切り吸い込む。
空気を突き刺すような爆発に僕はひるむ。その主が今は見てとれる。眼下では二隻の海軍の船――両方装甲駆逐艦だ――が砲火を交わしている。ロシアの旗と僕たちの同盟国であるイギリスの旗がはっきりと見える。黒い煙がイギリス船から立ち昇る。
「オザン!」
その姿を見る前にオルガン弾きの声が聞こえる。彼は幽霊のように甲板の下から現れる。僕をじっと見つめる白粉に覆われた頭だけが見える。僕は気を付けの姿勢を取って敬礼する。彼はオルガンを胸に結わえ付けてさらに上ってきた。
オルガン弾きのがっしりとした胴体よりも幅広い、よくニスを塗られたマホガニーの箱がオルガンだ。他のオルガンとは違い前面にある真鍮のパイプは柱のように直立しているのではなく、奇妙な角度で曲がって外側に突き出ている。パイプの先端はぎざぎざになっていて、怪物の顎のようだ。わきに付いているハンドルは鈍い灰色の鉄でできている。
「ぼうっと突っ立ってるんじゃないぞ、坊主。俺たちの出番が近づいている。楽譜集を取ってこい、檻を開けろ」
楽譜集というのは実際のところ茶箱ほどの大きさの木製の箱だ。彼はそれを自分の居住区のベッドの下に置いている。檻の方が近いにもかかわらず僕は先にそちらへ向かい、重たいからくりを持ってなんとか猿たちの元へと向かう。オマキザルたちは立ってこちらを見つめ、僕が掛け金に近づくところを目で追う。僕はかんぬきを外して檻の扉を開け放つ。
一匹の猿が叫び声をあげる。それはイーイーイーという甲高い声で、繰り返すにつれてサイレンか赤ん坊の泣き声のように徐々に調子が上がっていき、勢いを増していくようだった。他の猿が続く。三匹目と四匹目の猿が大きさを増していく叫び声の不協和音に加わるところで、僕は楽譜集を持って逃げだす。
デッキの上では空気が燃えているようだった。ロシア軍は対空砲を上に向けるあいだ、メタン爆弾を投げつけてきていた。緑や黄色の爆発が飛行船の右舷の空を彩る。破片が耳をかすめて思わず箱を取り落としそうになる。僕たちは捕捉距離まで下りてきている。
「来い、坊主」
オルガン弾きが言う。彼は甲板のロシア軍に近いほうの端に堂々と立っており、爆発の光が彼の眼の中で踊っている。
「『イェニチェリの行進』を寄越せ」 彼はオルガンの蓋を開ける。
楽譜集を持って彼の元に走っていく途中にあやうく転びそうになる。箱の中には十数枚の四角い銅板が入っている。板の側面には単語がぞんざいに彫り込まれており、「ダルウィーシュの旋舞」や「スルタンの自決」といった名前が付いている。僕は手を伸ばして正しい板を彼に渡した。
甲板が揺れた。こちら側の舷にある六門の砲が銛を撃ち出すと他の音は全て耳に入らなくなる。銛には巨大な鎖が取り付けられている。三つの銛がロシアの装甲船の船体を貫通する。鎖がぴんと張ると僕たちの船は揺れる。 ロシア軍の砲はまだ仰角を調整中だったが、照準はほとんど合わせ終わっていて、僕たちの方に向いていた。その砲は鉄で覆われたイギリスの船に黒い煙を吐かせたのだ。僕はこの飛行船の木製の船体がどうなってしまうのかを想像する。
オルガン弾きは銅板をオルガンに納めて蓋を閉じる。彼は最初のうちまるでオルガンに抵抗されているかのようにハンドルをゆっくりと回す。それは早く、徐々に早くなり、「イェニチェリの行進」が息子たちを悼む一千の嘆く母親の泣き声がごとく空を満たす。
猿たちは顔のない黒い潮流のように船倉から飛び出し、その中にときたま白色がひらめく。猿たちがオルガン弾きと僕のそばを走り去っていく。百万の冷たい手を感じる。あまりにも早いのでまるで人々が僕に黙るように促しているとでもいうかのようなシーッという静かな音が聞こえる。
猿たちは僕たちの前で散開し、鎖に取りつき、装甲船の方へと下っていく。黒い毛皮に覆われた体は油が流れ落ちるように、悪魔の黒い指のように三本の鎖を降りていく。
黒に覆われた下で何が起きているのかを見ることはできないが、兵士たちの叫び声は聞こえる。その絶叫は猿たちの叫びの不協和音を、「イェニチェリの行進」を奏でる容赦のないオルガンの音色を貫いて聞こえてくる。それよりも大きな音と言えば下のロシア船上で奇妙な間隔をおいて爆発するメタン爆弾の音だけだ。
こちらの方に向けられているロシア軍の砲が火を噴くことは結局なかった。
オルガンが止まると静寂が訪れる。渡り板を甲板に下ろせるようにロシア船の方へと高度を下げていくと、バ ラストタンクが蒸気を噴いてしゅうしゅうという音をたてる。
オルガン弾きは板をオルガンから取り出して僕に渡す。「楽譜集を元に戻せ。それから蘇生者に会ってこい。回収用の装備を付けてもらえ」
機関室にたどり着くと、アドナンは笑みをもって僕を迎えた。
「甲板を生き延びたみたいだな、いいぞ」
僕はうなずいた。機関室は配管と弁と計器の迷路だ。工具や何かの小瓶や、歯車だらけの奇妙な小物が散らばった作業台が部屋の中央を占めている。彼は隅の方を探し回って洗濯物袋のように見えるものを取り出した。金属棒の枠の間に麻布が張られている。
「役立ちはじめたみたいだな」
彼はだらりと垂れた革帯と留め具を引っ張って麻布の袋を僕の胸に結び付ける。
「浮浪児から見違えたじゃないか、ええ?」彼が尋ねる。
イスタンブールには既に宿なしは存在しなかった。スルタンの憲兵たちが街路や、路地や、阿片窟になっている打ち捨てられた建物をさらっていったのだ。憲兵たちは僕たちをブルーモスクに面した庭園に追い込んだ。憲兵の司令官は、押し合いへし合いし言い争いしながら家畜のように追い立てられた僕たちを見下ろす演説台の上 に立った。庭園の片側にはブルーモスクの、もう片側にはアヤソフィアの、神の拳のように大きい二つのドームがそびえたち、一方で僕たち、街の負け犬はその間に押し込められていた。憲兵隊長は演説台に備えつけられた拡声ラッパ越しに僕たちに話しかけた。
「お前たちは宿なしと呼ばれているが、それは正しくない。お前たちの家はここだ。我々の帝国だ。オスマンの母なる大地がお前たちを戦いに呼んでいる」
戦えない者たち――老人、障害者、狂人たち――は労働へと送られた。石炭掘りか飛行船や汽車や蒸気船の給炭係だ。女たちは工場に送られ、僕たちのような浮浪児は小さな半端仕事を与えられた。
「浮浪児でいるよりもこっちの方がましだと思うか?」
アドナンが質問を繰り返す。
「たくさん食べられます」
僕はほかにどう返していいかわからない。 彼は微笑む。
「じゃあ行って、パンを受け取りなさい」
僕はオルガン弾きからパンの代わりに頭への一撃を貰う。彼はがっしりした指を僕の顔の前で振る。
「『イェニチェリの行進』の後ではぐずぐずするな。俺たちの友が一番疲れているときなんだ。あいつらには俺たちが必要だ。ついてこい」
僕たちは渡し板を下りる。ロシア船の甲板での戦いは既に過ぎ去り、めちゃくちゃになり血を流す死体が転がっている。二ダースほどの猿の生き残りたちが甲板のそこかしこに座っている。猿たちの眼は何かに対して驚いているか恐れを抱いているかのように見開かれている。僕は猿たちが汗をかくことを知っているが、それでも猿たちは口を開けて喘いでいるように見える。後ろの方から煙を吐くイギリスの船が近づいてくる。
「イギリス野郎どもは部品を分捕りに来たんだ」オルガン弾きが言う。
「やつらが来る前に船を引き上げるぞ、連中の眼には毒だからな」
オルガン弾きはナイフを構える。ためらったり何かの儀式を行うということもなく、彼は自分の親指を切りつける。最初の猿のもとに歩いていき、その開いた口に血を流している親指を突っ込む。
猿は一瞬だけ血を吸ったのち、渡し板を跳ね上がるようにして飛行船へと戻っていく。オルガン弾きは次の猿のもとに向かいその過程を繰り返す。
「どうやって?」
僕は尋ねる。彼はこのすべての背後にある黒魔術については何ら説明しない。黙ったまま、猿の死体のもとで足を止めてひざまずく。その眼に浮かぶ表情は喪失と後悔だ。彼は出血する親指をぎゅっと押し、猿の白い毛皮に覆われた頭に血を一滴たらす。彼は猿を拾い上げて僕の胸に結わえ付けられた麻袋に入れる。
「こうやってこいつらを休ませてやるのさ」
彼が言う。
僕が反応する前に、彼は僕の手首をつかんでナイフを握る自分の手に引き寄せた。僕はナイフに親指を切り裂かれて鋭く息を吸い込んだ。
「俺が見せたとおりにするんだ」
彼は散らばる廃物の間をすりぬけて階段のもとへと急いで行き、甲板の下へと姿を消した。
僕はロシア兵の死体と彼らが落としたライフルの間を歩き、猿たちを飛行船に戻しあるいは拾い上げて袋に収めた。どちらの行為もその対価は血だ。猿たちの口が自分の親指を吸うのを感じ、その目つきが母親を見つけたようにやわらぐのを見るのは奇妙な感覚だったが、それでも船に戻す方が良かった。袋は膨らみ重みを増してい く。猿たちの血が袋の底を濡らし、茶色かった袋は今はワイン色に染まって血が滴りはじめていた。
最後の猿の死体はロシア兵の手から引きはがさなければいけなかった。ロシア兵は猿のあばらを握りつぶし、猿は水兵の喉を食いちぎっていた。僕はもう全ての猿が家に送られたか休息を与えられたことを知っていたが、それでも甲板を見回して猿の姿を探す。甲板下に続く階段は地獄への入り口のように見える。ここには死んだ兵士と下へと続く暗い顎しかないが、僕は階段に向かって一 歩も動くことが出来ない。
突然オルガン弾きが暗い階段から現れる。切迫した足取りで、目には心配を浮かべている。彼は腕に死んではいないが無傷でもない猿を抱えている。その猿は片腕を失っていた。
彼は僕についてこいとは言わなかったが、僕はただそうする。僕たちは飛行船に急いで戻り、甲板の下の機関室へと向かう。彼は傷ついた猿を両手で持ってまるでプレゼントでもあるかのようにアドナンに見せる。
「こいつをお前のようにしろ、蘇生者」
「できるかどうかわからない」
「お前が考えている間にこいつは死ぬ。やれ、アドナン」
アドナンは機械油の汚れを眉毛から拭い取る。
「本当に良いんだな、ヘザルフェン? 大掛かりだぞ。荒っぽくなる。君が想像するようにはいかないだろう」
オルガン弾きはただ頷く。
「体の部品を見てみないと」
再び彼は頷く。彼は僕の方に向き直る。ほとんどいっぱいになった袋と一緒に革帯を取り外し、新しい麻袋を僕の手に握らせる。
「甲板の下だ」 彼は言う。
「猿の部品ならここにあるじゃないですか」
僕は自分がわざわざ運んできた猿の死体の袋を指差して抗議する。
彼の眼は不信をたたえて見開かれているように見える。
「お前は休息の意味を知らないのか、俺たちが血にかけてこいつらに与えると約束した休息の意味を?」
彼を驚かせたのが口答えの横柄さだったのかあるいは血の印への不敬だったのかはわからない。彼の眼の奥に僕が一つ間違いなく読み取ったのは、冷たい怒りだ。
「甲板の下」
僕は命令を復唱し部屋から出る。
僕は戦いに敗れた船へと戻る。イギリス兵たちが装甲艦の甲板上のトルコ兵たちに助けられながら自分たちの船から渡し板を伸ばしている。他の兵士たちは死体のポケットを探り、ライフルを確かめている。甲板の下へと続く階段はいまだに僕を丸呑みにしようとする開いた口のように見える。僕は深呼吸し階段を降りる。
船の内部はばらばらになった人間と猿の混合物でおおわれている。猿たちが船を急襲したときにメタン爆弾がここで爆発したのだ。惨状の中を歩きながら自分の足元からあまり目を離さないようにする。僕は猿の部位を集めた、腕、脚、指、頭。やがて手の震えが収まるころには袋の四分の三ほどが埋まる。
飛行船の機関室に戻るとオルガン弾きはどこにもいなかった。傷ついた猿は車輪付きの寝台の上にのせられてぐっすりと眠っており、その唯一の腕には透明な液体の通る管が何本も繋がれていた。アドナンは小さい軸や歯車や様々な配管をためつすがめつしている。僕はオルガン弾きが蘇生者のためにこのようなものを集めさせたことに嫌悪感を抱きながら、アドナンの足元に猿の一部分が入った袋を落とす。
「パンを受け取りなさいといいましたよね。これでパンが得られるんですか?」
アドナンは歯車を注意深く調べひっくり返しながら、心ここにあらずといった様子で頷く。彼の心がどこか別のところにあるのは明らかだ。これ以上何を言っても意味は無いのだろう。それにこれ以上なにを言うことがあるんだろうか?
船の上では路上よりもたくさん食べられるとは言うものの、今日はとてもそんな気にはならないし、睡眠さえも十分には取れない。
三日後、僕は再び例の猿を見ることになる。彼は他の猿といっしょに檻の中にいる。金属の腕は子供のものとしても小さいが、それでも猿に対してはひどく大きく見える。前腕には回転する歯車があり、二頭筋のところに沿ってピストンが設けられている。黄色い膿が腫れあがった肉と硬い金属が交わり合う肩のところから滲み出し ている。
他の猿たちは彼から距離を取っている。僕は普通の猿たちが彼に対して、兵士たちがヤリム、半人間とあだ名し ているアドナンに対して抱いている思いと同じものを感じているのか不思議に思う。兵士たちが言うように、冷たい金属にくくりつけられることによってその本質を奪 い去られてしまうのだろうか? 他の猿たちは金属の腕 を持つ仲間が魂を持たないと考えているのだろうか? 他の猿たちが非難するような目で僕を見つめている間、金属の腕を持つ猿は僕の方に一歩進み出てくる。僕は二歩後ろに下がる。猿はそこで足を止めたが、僕はそのまま猿の檻を出るまで後ろに下がり続ける。猿から目を離さないようにしながら檻をぐるっと回って甲板上へと戻 るために走ったが、そこでオルガン弾きに勢いよくぶつかった。彼のたくましい胴体に跳ね返され、僕は床の上に尻もちをつく。
彼の顔は白塗りで、唇は赤く、狡猾な目つきをしている。彼はにやりと笑う。助け起こす代わりに彼は僕の上に身をかがめた。
「あいつに何と名付けたんだ?」
オルガン弾きはささやく。
「名前はありません、先生」
「嘘をつくな。名前を言え」
僕は首を振る。無だ。怪物だ。怪物の中の忌み子だ。名前などない。
オルガン弾きは僕の襟をつかんで持ち上げる。彼は僕を檻の扉のところまで引っ張っていく。猿たちは皆叫び始める、金属の腕を持つ者を除いて。僕は抵抗しようとしたが、彼の手は力強い。もう片方の手が掛金を探っている。檻の扉が大きく開いた。檻の中では猿たちが飛び跳ね叫びをあげている。
「俺に名前を教えるかこいつに名前を教えて夜を過ごすか選べ!」
オルガン弾きは大声で言った。僕を前へと引きずっていく。
「ルーシズ!」
僕は叫んだ。
「ルーシズだ!」
オルガン弾きは僕をつかんだ腕を離す。彼は檻に手をかけて閉めた。
「魂を持たないものと名付けたわけか、ええ?」
彼は猿を見ながら首を振る。
「前はアリという名前だった。今はルーシズだな。お似合いだ」
オルガン弾きはそれ以上何も言わない。彼はただ檻の中を見つめていて僕のことは忘れ去ったようだ。僕は逃げ出したが、最後に自分で名付けた猿をもう一度見る。
僕はこの名前を持つ怪物が次の戦いを生き延びないことを心から願う。だが怪物は生き延びる。哨戒飛行船との戦いは素早く終わった。向こうの船はこちらよりも軽く、速く、爆弾を打ち出す恐ろしい砲を装備している。何発もの爆弾が一斉に爆発し、僕たちの船体に穴を開けて木片と内臓を飛び散らせ、四人の兵士たちを破滅へと突き落とす。二本の銛が向こうの船体を捉えたのは幸運だった。
オルガン弾きは「ダルウィーシュの旋舞」を奏で、猿たちは鎖を渡りロシア兵たちを無視して帆や機関やバラストタンクを引き裂く。数分で機関は沈黙し、船は空中で無力に傾く。空を切り裂くのは船にしがみついていられなくなった兵士たちの叫び声だ。彼らの船は傾いてぶらぶらと揺れながら、こちらの船の下、銛から伸びる鎖 だけでなんとか宙に支えらえている。
彼らは結局降伏する。こちら側の兵士が船を黒海に下ろし、捕虜を収容して奪えるものが無いか船をさらう段になると、オルガン弾きと僕は猿たちを回収するために最初に船へ乗り込む。ルーシズは僕を黒い目で見つめ、血を求めて口を開けている。オルガン弾きのナイフが前と同じ傷を僕の指に開ける。
「お前が名付けた、お前が世話をしろ」と彼が言う。
ルーシズが僕の指を吸う感触は他の猿たちと同じだし、飛行船に戻る様子も全く同じだ。そして袋に収まる猿はたったの三匹であるにもかかわらず、あたかも僕の祈りをあざ笑うかのように、なぜか一部分を失った猿がもう一匹現れる。機関を破壊しようとして両手を潰されたのだ。
オルガン弾きは傷ついた猿をいとおしむかのようにし
てアドナンのもとへと連れていく。前と同じように彼は猿に元は肉でできていた部位の金属製の大きすぎるまがいものを取り付ける。数日後には、オルガン弾きが檻の金網越しに猿の大きな真鍮の両手を眺めている。
「こいつをどう名付ける?」
猿はルーシズの隣に立っている。
「クラッパー」
僕は言う。「それじゃあ」
彼が言う。
「クラッパーだ」
傷んだ糧食を前にしたかのように、彼はその名前について考え込む。
ぼくの祈りがあざ笑われていることを確かめるかのように、同じ出来事が次の戦いでも起きる。僕たちは荒れた海に翻弄される敵の石炭輸送船を闇夜に乗じて急襲する。 猿たちは「ハーレムの少女の秘密の口づけ」の幻のようなかすかな調べに乗って、ひそかに闇の中を動きまわる。 こちらには死者は出ず、ただ一匹の猿が片方の下肢を失い新しい名前を得る。ラックレス。これは僕が自分の運命についてどう思っているかでもある。
実のところそれはキスメットに乗り込んでいた者たちの共通の運命だった。午後の空き時間にチャイを飲みながらバッグギャモンで遊んでいた陽気な兵士が、その夜には吸気弁のバックファイアによって甲板から投げ飛ばされた。妻や子供のいる兵士たちは敵の砲火によって粉々にされ、誰かのためでもなく絶望的に生にしがみついて いる同輩たちによって悼まれる。士官の一人は、猿たちに貪られたのではないか、あるいはヴォイナ・グラーグと呼ばれる飛行船から吊るされる夢の繰り返しから逃れるために一マイルの距離を落ちていき海に飛び込んだのではないかという噂のみを後に残して完全に消え失せる。僕がルーシズと名付けた猿は、その運勢が悪い方向へと変わっていく不吉な兆候を見せる。彼は活力を失い、餌入れに向かいそこから戻るときに金属の腕を引きずっていくようになる。じきに彼はそれを引きずるのをやめてしまい、藁の上にただ横たわって腕は巨大な錨であるかのように見える。僕はイチジクとナツメヤシを彼の元へと持っていき食べさせてやる。じきに彼はそれすらもやめてしまい、忘れもしないある夕方、死ぬ。
僕は猿の死体をオルガン弾きの部屋まで持っていく。部屋のドアは大きく開かれている。彼は鏡の前に座り、僕に背中を向けてハンカチで顔の化粧をぬぐい落している。顔からは頭や首を覆う白粉が剥げている。鏡の中で目が合った。彼の眼の下には大きなたるみがいくつもできている。化粧なしでは彼は老いて、弱々しく、落ちぶれて見える。彼は僕が手に持っているものを疲れた目で見た。
「腕をもぎ取って蘇生者に渡せ。残りは舷側から捨てろ」
「血の秘跡が要ります」
「魂を持たないものと名付けられた猿には葬儀は不要だ。捨てろ」
僕は星の輝く澄んだ夜に上甲板で、とにかくルーシズに血の秘跡を与えることにした。僕は猿の大きな金属の腕のぎざぎざの縁で指を切り、白い毛皮に覆われた頭に血を一滴たらして、僕の腕から下に待ち受ける黒海の冷たい安らぎのもとへと金属の腕ごと送り出した。
オルガン弾きのヘザルフェンなど地獄に落ちてしまえばいい。猿に接続された部品を失うことに耐えられないなどと言うならばアドナンもヘザルフェンと同じだ。次の日、顔を合わせたときアドナンはそのことについて口に出さない。僕たちは一緒に日の出と煙草を楽しむ。周りの雲はミルク色の綿の巨人で、飛行船はこの天国ではあまりにもちっぽけなものに見える。僕は被造物の果てまで見渡せるような気がする。 「この生活はどうだ? 坊主」 彼は尋ねる。
「日々が一つに融け合って、一つの長い終わりない霞のようには思えないか?」
彼は笑い、僕の返事を待たず続ける。
「だがいつもそうというわけではない。見ろ」
彼は頭をぐいと傾けて言う。
「南だ。私たちはトラブゾンへと向かう。そこで修理を行い、補給し、そこの駐屯地から新しい兵隊を積み込む。クリミアのこの戦争から遠く離れたいい街だ」
僕はアドナンが伸ばした手から煙草を受け取り自分の番を楽しむ。
「けっこうな変化に聞こえますね」
僕は言う。
「ただ短すぎる休息だと思うことになるのでしょうが」
僕が煙草を返すと彼はそれを受け取る代わりに僕の肩をつかむ。彼の顔は真剣で、眼は厳しい。
「宿なしでいることの一番の利点はどこだって家にできることだ、そうだろう?」
彼が言った通りトラブゾンはいい街だった。背の低い家々が緑の丘と半月型の湾の間に静かにたたずんでいる。着陸すると僕たちは兵士や住人たちの歓声に迎えられる。新顔の兵士や修理人や補給品の箱を抱えた沖仲士たちが渡し板にあふれる。
「オザン!」
ヘザルフェンが僕を呼びつける。彼が僕を連れて渡し板を降りると、いくつかの小さな檻が待ち受けている。檻には猿たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、身動きしないにもかかわらず、多すぎて数えきれないほどだ。彼らは飛行船に乗っている猿たちのように僕を黒い、非難するような目で静かに見つめている。
これ以上はたくさんだ。アドナンが言った家についての言葉が頭の中をこだまする。僕は真夜中にヘザルフェンから、猿たちから、戦争から逃げ出す。誰も僕を見ていないし僕のことを気に掛けない。くらくらするような自由の感覚が僕を満たした。僕は意気揚々と街の通りや路地を探検して回る。
夜明けには飛行船の汽笛が鳴り、出発が近づいていることを知らせる。胸が詰まる。僕はあたりを見回した。この街の何かが僕の恐怖をかきたてた。機関のガラガラという音もバラストのシュウシュウという音もないこの静寂が不自然に感じられる。僕の視界は容赦なく遮られてしまった。ここにはあの眺望はない。すべてがとても醜く低く見えた。
僕は汽笛の音に向けて全力疾走する。飛行船が僕を置いて離陸してしまうのではないかという恐れが脚をかつてないほどに駆り立てる。待ってくれという叫びは甲高い汽笛にかき消される。何とか間に合い、渡り板を駆け上がって足をつまずかせ甲板の上で転んでようやく止まる。
アドナンは上昇する飛行船の甲板にぜいぜいと喘ぎながら横たわる僕を強い不信を込めて睨む。
「馬鹿な若僧だ」 彼は言う。
またもやアドナンの言うことは正しかった。僕はロシア軍と対峙するたびに自分の選択を後悔することになる。 僕はさらに、性質の異なる六回の戦いを体験し、そのたびにオルガン弾きは異なる歌を奏でる。軽武装の船に対しては「スレイマンの歌」が、重武装した船に対しては「イェニチェリの行進」が、そしてコロタル、蒸気仕掛けの装甲に身を包んだ兵士に対しては「スルタンの自決」のみが演奏される。
それらの戦いは猿たちに犠牲を強いて猿たちから生まれ持った本性を奪っていったが、ヘザルフェンの日常は決して変わらない。彼は傷ついた猿たち、まだ息をしている部位、まだ痛みを感じている部位、まだ半分以上残っている猿の部位を拾い上げ、猿たちを腕の中に集めながら話しかけ、頼み込み、懇願した。猿たちを落ち着かせ、待ち受ける蘇生者の研究室に連れていくあいだそれ以外の世界のことを忘れているかのようだ。猿たちに新しい脚や、新しい尾や、またある一匹に対しては新しい顎を与え、そして全ての猿に新しい名前を与えた。オルガン弾きの軍団のほぼ半分が金属の部位を持つようになった。僕は誓って言えるが彼はその猿たちを憎んでいるのだ。
二匹の永遠に忌むべき者たちに名前を付けた後、僕は開けたところに退却することにした。甲板の上ではアドナンが煙草を吸っていた。彼は西方の、水平線よりも下に沈んだ太陽の投げかけるオレンジと紫色を見つめていた。
「ヘザルフェンのことがわからないんです」
僕は彼に言った。
「彼は猿たちを救うために尽くして、いったん彼らが救われると今度は憎みはじめるみたいなんです。どうしてそんなことを?」
「それこそが誰もが答えを探しているものなんだ!」
アドナンは罵るように吐き捨てる。
「君はどうして飛行船が浮遊するのか知っているのか? 私は君に蒸気機関とバラストを制御する水素蒸留器の仕組みを教えることができる。それを知りたいのか? それか猿たちがオルガンの音に従うのはなぜなのか不思議か? 私はファラデーの電気に関する研究とメスメルの精神制御に関する研究について、そしてその二つが動物の脳への電気的に誘導された刷り込みについての恐ろしい、信じられないような実験に繋がったかを話すことができる。私はこの刷り込みが銅板に見出される音声指示、トルコ趣味によって上書きされた指示によってどう強化されるかも説明してあげられるだろう」
アドナンは続ける前に煙草を吸う。彼が話すと煙がその言葉の周りに巻きつく。
「誰もそんなことは聞きたがらないんだ、この科学については。なぜなら魔法を信じる方が簡単だからだ。善の霊や悪の霊や魂を」
彼は自分の金属の指を見た。
「そして半分の魂をね」
彼は水平線まで広がり沈んでいく日の光を反射して宝石のように光る黒海の方を見やる。
「この蒸気の時代になっても人々は古きコンスタンティノープルの魔法を信じている。渦巻く水煙管の煙に潜む精霊や、安っぽい細工物を売るグランドバザールの忘れられた隅に住む不死人や、金角湾の海岸の黄昏に踊る妖精たちを。そしてよりにもよって、君が説明を求める全てのものの中で、私に解き明かしてあげられる範囲の様々な現代の機械仕掛けの中で、君は常に覆面を被っている男の真意について疑問に思っているわけだ」
アドナンは僕の方を見る。
「人間が何を感じているのかは説明できないのだよ、この世界にただ一つ残された魔法だ。君には説明できるか? それを?」
僕を見るアドナンの表情からオルガン弾きのことを言っているのではないことがわかった。僕はその答えを知らないし、何も言わない。なぜ自分がこの船の上にいるかもわからないのだ。
答えは一週間後にもたらされる。巨大な暗い雷雲に覆われた乱気流の中で。僕たちは船のそばの雲の中に隠れている不自然な光を発見し、銛を撃ち込む。六本の銛全てが目標をとらえる。一瞬ののちに敵のヴォイナ・グラーグでしかありえない、巨大な飛行船が雲の隠れ家から現れる。
ヴォイナ・グラーグは飛行船というよりは箱で、四角く聳え立ち、角ばっていて海軍の駆逐艦にしかついていないような大砲を備えている。彼らの機関がこのような巨獣を浮遊させていられるのは奇跡だ。それは目の前の空の全てを占めているように見える。しかし、これがヴォイナ・グラーグであると僕たちに認識させるのはこれらのどれでもない。
ほとんどのロシア船とは違って、ヴォイナ・グラーグは捕虜を取る。捕虜たちは平たい船底からロープとベルトによって吊り下げられている。数えきれないほど多くの体が列をなしてぶらさがっている。生きている者がいて、風にかき消され幽霊のうめきのようにしか聞こえない枯れた声で叫んでいる。トルコやイギリスやフランスの風化した軍服の中で永遠に腐っていく死体もある。まだ元気のある者たちと腐っていく死体の中間には、すっかりやつれて虚ろな表情を浮かべた精気を失い痩せ衰えた兵士たちがいる。骨の浮き出た顔は死そのもののようであり、この飛行船に立ち向かうものにその末路は生きた戦利品であり、死が救いに、最後にして最大の祝福に なるということを恐ろしくも知らせている。
こちらの銛は既に獲物を捕らえている。逃げることはできない。ヴォイナ・グラーグはその巨大な砲を発射した。
僕たちは自らが発する蒸気の雲に包まれ、バラストの甲高い音と共に急降下したが、十分によけ切れなかった。砲火がこちらの帆を台無しにしてしまった。兵士たちは索具や木片や帆が降ってくる中を逃げ惑う。一瞬ののち、ヴォイナ・グラーグは岩ほどの大きさの二つの金属球をこちらに向けて発射してくる。それは気分の悪くなるような音をたてて甲板に着地する。金属球は直立し、二体の蒸気仕掛けの騎士、コロタルが現れる。
普通の人間よりも大きくずんぐりとしており、その面には骸骨に見えるような塗装が施されている。コロタルはそのように金属を身に着けている人間とは思えないほどの速度で走り、膝や肩の装甲の継ぎ目から蒸気を吹き出す。彼らはこちらの兵士に向かって突撃し、前腕に取り付けられた剣で兵士たちを切り捨て船尾の方へと向かってくる。
ヘザルフェンは片手に楽譜集を、もう片手にオルガンをもって上甲板へと急いで向かう。彼はわざわざオルガンを胸に結びつけることはせず、代わりに僕の方に楽譜集を投げ渡し、オルガンを甲板に置いて蓋を開ける。僕は何も言わずに楽譜集を開け、彼に「スルタンの自決」を投げ渡す。
ヘザルフェンは膝を突きオルガンを弾き始める。コロタルたちは鉄の皮膚で全く効き目のないライフルの弾を弾き返しながらこちらのバラストタンクを切り裂こうとしていた。階下から群れをなして現れた猿たちがそちらに向かって殺到する。猿たちはコロタルを覆いつくし、狂ったように引っかき、噛みつき、関節や継ぎ目からコロ タルの装甲の中に入り込もうとする。猿たちの金属の部 分と蒸気仕掛けの鎧がぶつかって火花を散らす。すぐに、鎧を脱ぎ捨てようとして死にゆく兵士のおぞましい叫び声が聞こえはじめる。
もう一方のコロタルは群がる猿たちを面頬から弾き飛ばし、甲板の上を見回す。オルガン弾きを発見すると煙を吐くバラストのことは忘れてそちらの方に突撃する。ヘザルフェンは立ち上がり、オルガンを革帯で支えながら弾き続ける。猿たちが鎧の中にようやく入り込むとコロタルの歩みは不規則になり、叫び声が聞こえる。しかし それは進み続ける。コロタルに掴まれたヘザルフェンはオルガンを手放し、転がり落ちたオルガンは甲板に激しくぶつかる。
叫び声をあげ、死にゆくコロタルはヘザルフェンと半ダースほどの猿と共に飛行船から飛び降り、全ては眼下の濃い雷雲の中に消えていく。
僕たちはみなオルガンを見つめた。
誰だってそれを弾くことができる。しかし誰もその楽器を手に取ろうとはしない。宿命に直面し、ヴォイナ・グラーグから吊るされた体に自分自身の未来を直接見ているにも関わらず、誰も動かない。誰もオルガンが与え、奪うものを知らないのだ。オルガンが地獄で鋳造されたものであると信じていないのはアドナンだけだった。
僕が名付けた猿たちがみな僕を見つめていた。クラッパーとラックレス、アイアンテイルとハードジョウ、一ダースを超える怪物たちが他の猿たちにヤリムとして扱われ、オルガンの魔法に掛かっていないときには距離を置かれていた。助けを求めるかのように猿たちはその名付け親、自分たちを血で育てた人間の方を見ていた。他の猿たちは喘ぎ、虚空を見つめている。ヘザルフェンが行ってしまったことで名前を失ってしまったのだ。きっと再び彼らに名前を与える機会があるだろう。僕はかつて彼らは無傷なのだと思っていたが、しかし実はピストンと歯車の助けを借りて動いている仲間たちと同じように、明らかに彼らもまた作り変えられた存在なのだ。
彼らのように、僕のように作り変えられたとしても、僕たちはみな家を必要としている。そうだろう?
ヴォイナ・グラーグは空中で旋回し、こちらにもう一斉射加えようしていた。
二ヶ月のあいだ、大人になりきれずにいた。僕の選択ははっきりしている。僕は「スルタンの自決」を「イェニチェリの行進」に入れ替えてオルガンを弾き始めた。その音色は一千の嘆く母親が息子たちを悼む泣き声だ。僕の顔には、兵士たちが故郷のことを話すときに浮かべるのと同じ笑みが浮かぶ。