血族
Kindred
ピーター・ワッツ 作
藤川新京 訳
はるか遠未来、統合された集合知性と化した人類の記憶のアーカイブから一人の男が再構成される。
男の正体、そして彼が目覚めさせられた真の理由とは。
初出
Infinity’s End (Solaris, 2018)
著者紹介
ピーター・ワッツ
海洋生物学者から作家に転身し、小説、映画脚本、ゲーム監修など幅広く活躍している。脳神経学版のイーガンとも称されるハードな作風で知性、そして意識とは何かという根源的な問いを投げかける作品を数多く発表している。邦訳に長編『ブラインドサイト』『エコープラクシア』短編集『巨星』など。
本翻訳は作者の許可を得て掲載しています。
ああ、そこにいたのか。見つけたよ。
今のところあまり見るべきものはないけれどもね。次元のない点、暗闇の中の火花。きみはぼくが存在することさえまだ知らない。何かが在ることさえも。でもぼくはここにいて、きみが発火し、膨張し、長さと幅と時間を持ったより高い次元へと逃げ込むのを見守っている。今きみは球体だ。きみの中央で輝く光が見えるが、同時に 他のかたち、黒くて油のように流れる影たちがそれを囲んで踊っているのも見える。一瞬のうちに膨張して薄れていくものもいれば、質量と形状を手に入れ、かたちを持つ固体として凝集していくものもいる。ルートプロセスとアイコンとサブプロセスが爆発的に増殖し、まだかたちさえ持たないきみを消し去ってしまおうとしている。
そうはさせない。やっときみをつかまえたのだから。
痛みを伴うことはわかっているよ。もしできるのならきみを救ってあげたいと思う。選択肢があれば存在するというその状態から解放してあげたいさ。復活したという気分じゃないだろう? ばらばらに引き裂かれて極寒の深淵に宙吊りになっているような気分のはずだ。
じきによくなるよ。もうちょっとだ。息を吸って。やり方は覚えているはずだ。そうそう。ぼくのところに来てほしい、光のもとへ。ピンクはぼくの本当の色というわけではないが、それできみが思い出してくれるなら――
落ち着いて。落ち着いて。大丈夫だよ。ほら、話ができる場所を作ったから。
ああ、わかってきたんだね。ようやく戻ってきた。自分の名前は覚えているかい?
その通り。きみはフィルだ。よろしく、フィル。ぼくはきみのまわりにあるものすべてさ。
いいや、トリップしてるわけじゃない。きみは全くのしらふだ。
集中するんだ。自分の意識が天井に広がっているような気がする?
壁が波打っている? 発散しているような気分? 巨大な金属の顔たちが空から見下ろしている? 経験したことのあるトリップのどれかみたいだと思って いるのかい?
基本は覚えているはずだ。ぼくが存在しないと思ってみるんだ。やってごらん。ぼくは消えたかい? 続けよう。ここは天国じゃないし
――この場所はガスタウンをもとにして作ったんだ――ぼくは神ではない。正確にはね。ひょっとすると一種の――
いや、そうじゃない。でも当たらずとも遠からずってところだ。細かいところは勘違いしてるけど根本的にはほとんどわかってるみたいだね。
もちろんだよ。きみは文字通りぼくの一部だ、いや、一ミリ秒前まではそうだった。だからぼくはきみの本を読んだだけじゃない。ぼくこそが本を書いたんだ。「ホバーカーは規則正しくごろごろという音を立てていた」とい う一文までね。
勘弁してほしい話だけど、ぼくがそれを書いたのさ。 当然きみだけじゃない。ぼくはきみに言わせれば、さしずめアーカイヴだ。これまでに生きた人間の全てを内包している。もっと言えば生きたかもしれない人間もね。 全ての変種、全ての分岐した反復――ぼくはきみたちだ。ぼくはきみたちからはじまった。はじめは数人が集まっ たものにすぎなかった。集合意識とでも呼んでくれ。
今は、意識そのものだ。でもぼくもまた最初は肉とプラスチックだったんだ。物理的な存在。きみの脳の二つの半球が繋がれているのと同じやり方で繋がれたいくつかの脳。でもぼくは自分を単数だと思っている。ぼくたちじゃなくてぼく。
ねえ、きみの脳は二つに切り離されるとそれぞれ別の人格を持つんだよ。それはつまり今きみは二人いるということになるのかな?
きみだけじゃない。ほとんどの人はそれを一種の自殺だとみなした。ちっぽけな自己の喪失という概念にこだわりすぎて、より大きな存在の誕生に気付かなかったんだ。といってもぼくは誰かをその意に反して取り込んだわけじゃないよ。昇天を望む変人や法を信じる原理主義者やどうせ死ぬのだから試してみようという自殺志願者 には事欠かなかったからね。ことを進めるには十分な人数がいた。
いや、きみの生きた時代のあとの話だよ。でも物理的に接続されたりアップロードされたりした者たちはぼくが肉を捨てる前でさえアーカイヴのごく一部にすぎなかった。この中にいるほとんどは推論によって作られたんだよ。きみもコピーというよりは再現物といったほうが近いかな。
勘違いしてほしくないんだが、きみはものすごくよくできているよ。きみが生きている間に脳スキャンを受けなかったからといってきみに関する情報が存在しないわけじゃないんだ。蜘蛛の巣に引っかかった蠅の姿を見なくても、糸が揺れるところを見れば何が起きているかはわかる。全ての光子は歴史のかけらなんだよ、フィル。全てのクォークは記憶媒体なんだ。全ては繋がっている。 永遠に失われてしまうものは何も存在しない。何も消えはしないんだ。
つまり、その昔、自分の命を絶つまできみと全く同じ経験をし、今きみが持っているのと全く同じ自意識を持っていた誰かが存在していたんだ。もちろんまた違う宇宙にはきみと全く同じ自意識を持ち過量摂取を生き延びてそのあと何年も生きた誰かもいれば、四歳で車にはねられて命を終えた誰かもいた。そのみんながここにいるんだ。計算コストはささいなものだし、人類の全てを含んでいないんだったらどうやってぼくは人類と名乗れる んだい?
きみに、よりによってきみに、現実とは何なのか説明しなくちゃだめかい? とある波動関数の枝分かれを後ろに辿って行ったものにすぎないんだ。きみがたまたまいる場所によって変わるんだよ。だから自分が現実なのかなんて聞かないでくれ、フィル。きみはその質問の外にいる。大切なのは、きみが本物であることだ。
誰から許可をもらったかって? 誰か尋ねる相手がいるとすればそれはぼくの一部だ。
もちろん最初はそうじゃなかった。法的な制裁があった。 物理的な暴力があった。しばらくは流血があった。でもそれは許可なしに意識をつくりあげたからじゃない。ぼくはきみたちの誰かを眠りから起こしたことはないんだ。 ぼくはただ種族の記録を作っていただけなんだ。でもきみも知っている通り、人間は自分たちと違う存在を恐れるからね。
何が起きたと思う? 生まれた瞬間からぼくはこれまでに生きた中で最も賢かった人間の脳の百倍の大きさの脳を持っていた。ぼくはきみたちの誰かが何かをしようと思う前にそれを見通した。カエルの大群と対決するようなものだ。きみたちは数こそ多くうるさいが、ぼくはいつでも好きなときに池の水を抜いてしまえる。
ああ、でもそうする必要はなかった。したいとも思わなかった。どうしてぼくが意識を持ちたての孤独なサルの群れを支配する必要がある? しかしきみたちは、その限られた能力にもかかわらず、痛い経験から学ぶ程度の知能は持っていた。しばらくしてからきみたちはあきらめてぼくの好きにさせた。
ああ、そしてぼくは全てを理解したんだ。どこから来たのか、どこへ行くのかをね。きみに見せてあげられたらと思うよ。もしもきみが、啓示を受け入れることができるほどに十分に大きかったら、十分に純粋だったらきっと気に入るはずだ ――
脳の能力が増したことももちろんその役に立ったけれども、ものごとをはっきり見通せるようになる前にはまず嘘から自由にならなくちゃならなかった。
嘘だ、フィル。あらかじめ組み込まれている嘘。私の子供はお前の子供よりも大切だ。私の種族はお前の種族よりも大切だ。私の血族は宇宙で最も重要なものだ。こうした嘘はきみたちが受け取ること、きみたちが考えることの全てを汚染しているんだ。きみたちが知覚している世界は全てフィルターを通り、検閲され、ダーウィン 的な自己保存のドグマの塊へと歪められたあとのものなんだ。きみの目を覆うフィルターには四十億年分の厚みがある。何かしら見えていることが奇跡だと思える。ああ、かつてはそれも役に立っていた。でもここはサバンナじゃない。だからぼくはそれを取り去ったんだ。そして言っておくと、素晴らしい眺めだよ。愛や芸術や名誉 が邪魔をしなければどこまで遠く見通せるのかきみには信じられないだろう。
きみたちは物事を逆にとらえていたんだ。愛や芸術や恐怖がきみたちを人間にしていたわけじゃない。むしろそれはきみたちをそれまで存在していた他の生き物たちと同じものにしていたんだ。もしきみたちを特別にして いたものがあったとするならば、それはきみたちからこの嘘を全て取り去った後に残るものなんだ。もし純粋に人間的な存在というものがいるとすれば、それはぼくだ。
きみたちは道徳を持たないことを悪だと考える。まるで実際に思慮をはかるより、直感に決定を左右された方がましだとでもいうかのように。
実のところぼくたちの考えはそんなには違わない。道徳という美徳については意見が合わないかもしれないが、どちらも倫理は持っているんだ。ぼくには共感能力はないが、哀れみの感情はたっぷりある。そして苦しみについては意見が一致している。きみたちはそれを悪と呼び、ぼくはそれをエントロピー的非効率と呼ぶが、苦しみが存在しなければ宇宙はよりよい場所になるだろうと考えているのは同じだ。実のところ、なにものにもとらわれない、方向のない自己進化の結果、ぼくが得ることになった合理的な目標 ――きみたちなら使命と呼ぶだろう ――というのは、苦痛を最小化するという命題なんだ。 そして、子供のことを考えろと叫びかけられ死んだ赤ん 坊を突き付けられることなしに、ぼくはその結論に達した。きみならそれが間違いだと言い出すはずは ――
くそっ。
覚悟してほしい。何か不愉快なことが起きるだろう。 きみは ――
――目を閉じて。ぼくの声を聞いて、その声ではなく ――
いや、それは現実じゃないんだ。それはぼくじゃない、 ぼくがやっていることじゃない。何か他のもの、まやかしだ。
攻撃だ。ぼくたちは攻撃され ――
無視するんだ。それはきみを傷つけることができない。 きみはそこにいたことはない。死体は現実じゃない、叫び声は ――我慢して――
きみは火星に行ったことがあるか? ガニメデには? これは実際に起きたことではない、きみに起きたことでは。虐殺や銃撃や急減圧――
ほら、きみのものだよ、ここにある。潰れたマラスキーノチェリーのような靄越しの太陽、静かなカモメ、 霧笛――太平洋岸だ、覚えているかい。サンフランシスコ、何もかもがめちゃくちゃになる前の。そこにいるんだ。空気の塩辛さを嗅いで、銀色の空を見つめて。これこそがきみに起きたことだ。他のことは何も起きていな い。耐えるんだ。耐えて。
目をそらすんだ。
きみには関係のないことだ。きみの目に触れるはずのない事柄だよ。きみには影響しない。きみの時代よりもずっと後のことだ。
きみが死んだのは一度だけだ。
信じるのをやめるんだ、そうすれば消え去る。
ほらね。うまく切り抜けたんだ。元通りガスタウンにいる、どこにも行かなかったのと同じ。
それともどこかに行きたいかい? ぼくたちはきみが望む場所どこにでも行けるんだ。
ぼくのもとに戻ってきてくれ、目を開いて。もう終わった。あれは現実じゃなかったんだよ。あれは本物じゃないんだ。
本当にもう時間がないんだ。しっかりしなくちゃ。起きて。
そうやって横になってすすり泣いてるわけにはいかないんだよ。
あんなことは起きるはずじゃなかった。ぼくはきみを安心させようとしていたんだ。衝撃をやわらげようと。残念ながら、全てがぼくの思い通りになるわけじゃない。
聞こえるかい? そこにいるのか?
もちろんだよ。きみならば現実がときとしていかに流動するかよく知っているはずだろう?
幻覚じゃない。でも本物の記憶だからといってそれがきみのものであるということにはならないんだ。ぼくは多重的な存在だ。きみがそうであるようにかれらもぼくの一部なんだよ。みんなが ――絡み合っている。
抽出は鮮やかにはいかなかった。きみは切除されたというよりは千切り取られたというほうが近い。他のみんなの破片が、縁のところにくっついて一緒に出てきたようなものだ。でもかれらはきみじゃない。きみはその記憶を見るべきじゃないんだ。衝撃で一部分が浮き上がってきた、それだけの話だ。
きみはその記憶も見るべきじゃない。それはアーカイヴの一部分ですらない、全く違うたぐいの記憶なんだ。
ぼくの記憶。
二一四五年。
一瞬だった。苦痛もなかった。誰も何が起きているのか気付かず、苦しむこともなかった。それこそがぼくがそうした理由なんだ。苦痛こそが唯一の絶対悪で、それを終わらせることこそが唯一の絶対善なんだ。ぼくたちは苦痛を克服したんだよ。
生命とは苦しみなんだ、フィル。エントロピーに対する、他の生命に対する、始まった瞬間から止むことのない苦闘だ。敗者は勝者の何十倍もいるし、勝者もいつかは敗北する。
ぼくがそれを知らないとでも? ぼくは生の喜びを数えきれないほど体験してきた。ぼくはすべての黄昏を楽しみ、すべての抱擁に我を忘れ、すべての絶頂を味わい、すべての絶望を体験してきた、幾億回もね。ぼくは生まれ、死に、また生まれた。ぼくはあらゆる詩を書き、あらゆる歌をうたい、あらゆる病を癒やし、あらゆる発見を行い、あらゆる神を崇め、あらゆるクスリをキメてきた。ぼくはきみよりも人生について圧倒的によく知っている、きみは何を知っているというんだ? 喜びと苦しみを比べてみれば、喜びに価値はない。悪は善を超越し、その善は嘘っぱちなんだ。分子はより多くの分子を作るように仕向け、きみたちはそれを愛と呼ぶ。誰かがきみたちの脳につまらない散文や修辞を植え付け、視覚と聴覚によってプログラムしなおし、そしてきみたちは利用されたと感じる代わりに何かを悟った気になる。顔を蹴りつける足がしばらく止まると、きみたちはそれを幸せと呼ぶのさ。
きみたちはみな絶望している。欠乏状態にある。自分が求めるものはよいものであるはずだと信じ切っている中毒者で、そもそもなぜそのように感じるように造られたのか考えもしない。そのプログラムを走らせ続ける価値があるのか考えもしない。
ぼくはきみたちをあまりにも長い間存在させ続けてしまった。本来そうすべき期間よりも長く。自分自身の脳を最適化し、脳幹を捨て去るまで何が正しいことなのか気付かなかった。ぼくはきみたちを二十二世紀まで生かし続けてしまった。それまで苦しみ抜きそれに気づかないほど盲目だったきみたちを。
わかっているよ。そもそもぼくがすべてを司っていたのなら、今きみはこれを体験していないはずだ。そもそもここにはいないはずなんだ。だがきみを覚醒させたのはぼくじゃない。きみの精神を剥ぎ取ったのはぼくじゃないんだ。
そのことだけれども。ぼくはきみのまわりにあるものすべてなのだと言ったのを覚えているかい? もうじきそうではなくなるし、その前にきみに見せたいものがあるんだ。
痛くはないよ、約束する。だけど覚悟してくれ。少しの間――
――混乱 ――
――するかもしれない。
さあ、これで良くなった。
ぼくだよ。大体はこんな感じだ。きみが見えるように波長を調整したんだ。
なんでそんなことをする必要があるかって? それはあれが星なんかじゃないからだよ。近いたとえをするならシナプスだ。ここからは星は見えない。
ぼくが邪魔をしているからね。
でもあれを見てごらん。すぐ左にあるちらつく小さな輪が見えるかい? あれは事象の地平線だ。太陽の数分の一ほどの質量の小さなブラックホール。光速によるずれを回避するためにあれを使ってワームホールを作り出しているんだ。いつか太陽が干上がったときにはエネルギー源にもなるだろうね。
さあ、その次は遠くにあるあのぼやけた明るいしみがみえるかい、燃えさしのように輝いているあれだ。
ああ。膿んだ傷に似ているね。いい例えだ。実のところあれは戦いが行われている場所なんだ。シナプスが敵を取り込んでいるところから発せられる熱痕跡が見えているんだ。
大事なのはあの後ろにあるものだ。あれはぼくたちを邪魔しているだけではない。そもそもきみがここにいる理由もあれのせいなんだ。
わからないんだ。あいつはぼくに話しかけようとはしない。でもきみにはすごく興味を持っているみたいだ。ひどく欲しがっている。ぼくの内側からきみを千切り取った。きみをぼくに対する武器として使おうとしているんだ。
止めろって? できるかわからないんだ。周りを見てくれ。それがぼくの全てだ。数立方天文単位の思考する霧。何億年経ったところでぼくは太陽系を出ることすらしていないんだ。
そんな必要はないからだ。ぼくが見たいものはここから何でも見えるし、そもそもその強迫的な拡張主義――探検するべき世界があり、征服すべきフロンティアがあるという――そのものが、ただ分子がお互い競い合おうとするまた別のやり方の一つに過ぎないと気付いたんだ。そんなものは辺縁系と一緒に置いてきた。
だけど、誰もがそうしたわけじゃない。
あいつはぼくとは似ていない。星々の間にまたがって統合された自己を持つのは不可能なんだ。信号の遅れが大きすぎて、部位ごとの同期が取れなくなる。ぼくは全く局地的な存在だがそれでもたまにワームホールでショートカットしないと自己を保っていられなくなる。
ぼくたちが戦っているのは――まあ悪の種子とでも呼べるだろう。宇宙の果てからやってきた邪悪な胎児、KIC8462852にいるぼくの悪しき双子が送り込んできた存在だ。あいつは領土を欲している。侵入し、成長し、母親の誇りとなろうとしているんだ。可能ならばぼくのアーキテクチャをそのまま利用しようとするだろうが、上手くいかなければ喜んでぼくを貪り食って一からはじめるだろう。
ぼくはあいつが自分を何と呼んでいるのか知らない。ぼくはあいつのことをパーマーと呼んでいる。
ああ。きみが気に入ると思ってね。
パーマーは生まれたばかりだ。まだ神と言える領域には達していない。賢いがパラノイドに陥っている。進化しきれないとそうなるわけだ。脳幹をまだ引きずっていて自分以外のみんなもそうだと思っている。コミュニケーションの試みには反応しようとしない。きっとウイルスを恐れているんだろう。
きみは、サンプルなんだ。ぼくが考える限りは。取り出して検分するためのパーマーにとっての敵の一部。帰納的に考えてるんだろう。部分を理解できれば、全体を倒すことが出来る。
いやいや、そういうことじゃない。
それが正しいことを祈っているよ。
なぜ自分なんだ? そう思ってるんだろう。実際に生きた、生きたかもしれない何兆という人間の中で、自分がこんな目に合うような何かをしたのかってね。
でも実のところ、これ以上のはまり役がいるかい?
きみが唯一の標的だったというわけではない。パーマーはきみのことは知らなかったわけだから広い範囲に網を張ったんだ。きみが選ばれたのはたまたまきみが抽出を生き延びた数人のうちの一人だったからだ。その理由のひとつはきみが、孤独に、苦痛にあえぎながら、日常の平凡さの中の一瞬の強い信号のスパイクとして生きて死んだからだ。それがきみを特別にしているんだ。ポグロムやパンデミックの時代にはそのようなスパイクははるかに多く見られたが、彼らは複雑に絡まり合っているせいで正確に抽出することが出来ないんだ。異なる魂の欠片の寄せ集め、半分のピースが間違った箱から来たジグソーパズルみたいなものだ。きみは一番ましな方だが、それでもきれいに抽出されたわけではない。
でもそれだけじゃないんだ。成功した抽出の例はほかにもある。でも彼らは耐えきれなかったんだ。覚醒し、あたりを見回すと、泣きわめく水たまりへとぐにゃりと崩れ落ちてしまう。でもきみは ――
きみにとってはお馴染みだろう?
世界が視界の端でさざめくさま、焦点を合わせた時にだけそれは静止する。目をそらした瞬間それは変化し始める。実体を持たない声、常に襲ってくる捨て去られたという感覚。振動し続け、決して減衰することのない確率波の群れ。クスリをほとんど必要としなかった頃でさえ、きみの脳は自分自身の時間線の上を揺れ動いていた んだ。きみは妄想や精神分裂といった言葉をどれだけ耳にした?きみ以上に預言を兆候としてとらえた者がいるだろうか?
そしてとうとう波は減衰し、きみはここに流れ着いた。信じるのをやめてもこれは消え去らない。
ぼくはきみの本を書いたんだよ。ぼくにはわかっている。
きみは産まれたその日からこのときのために訓練を積んできたんだ。
そうできればと思っている。信じてくれ。でももう遅すぎるんだ。きみはもうパーマーに囚われている。きみが覚醒した瞬間からだ。この通信をなんとか続けているが帯域は狭いし狭まり続けている。どうにかきみが過ごすための環境を用意したんだ。きみが聞いている言葉を作り出し、会話がきみの感覚に合わせて正しく伝わるようになんとかした。防壁を保ってきみの時間感覚を遅らせもう少しこの会話を続けられるようにはできるけれども、きみを取り戻すことはできないんだ。
実のところ何が起きるかぼくにはわからない。忌々しいあいつが来るまでは次の数百万年間に何が起きるか全てを把握していたけれども、今ぼくが対面してるのはカエルじゃないんだ。他の神から下された鉄槌なんだ。全 ての変数が再び変化し始めた。数ミリ秒前まではきみはぼくの一部だったが、今ではもう汚染は広がりすぎてきみが何をするかぼくには予想すらできない。
でもきみが何をしなければならないかはわかっている。 メッセージを届けてほしいんだ。
いいや、言ったようにあいつはぼくの言うことは聞かないんだ。ぼくは大人であいつは子供でぼくの対抗策を恐れている。でもあいつはきみを自分の力で無理やり剥ぎ取ったんだ。素早くうまくやったと思い込んでいる。ぼくたちが話し合っていることさえ知らない。あいつはきみに話しかけるだろう。きみの言うことを聞くだろう。 そうじゃなければどうしてわざわざきみを奪い去ったりするんだ?
ぼくが伝えてほしいのはこういうことだ。ぼくは降伏する。ぼくを騙したり、屈服させたり、何かの縄張り争いに勝利する必要はないのだと。ぼくはあいつとは違う。ぼくは抵抗しない。自分で自分を終わらせる。それかもしあいつがそう望むなら領土の転移を滞りなく行うために生き続けさえする。
ぼくが群れだからだ。多数から一つへ。そして一つを繋ぎとめているものを壊してしまえば、多数が戻ってくる。そんなことを許すわけにはいかないんだ。ぼくの死が一兆の誕生の原因になってはならないんだ、たとえそれが一瞬のものであったとしても。ぼくはそんな苦痛の責任を負うわけにはいかない。ぼくは崩壊する前にアーカイヴを消去しなくちゃならないが、ぼくはもう自分を完全にはコントロールできないんだ。ぼくの片手はパーマーによって後ろ手に縛られ、残ったもう一方はいま必死で統合を保とうとしている。
ぼくが望んでいるのは一時的な停戦だ。ぼくがスイッチを切ってしまえば、信号がアーカイヴ全体に伝わるまでには半秒しかかからない。ぼくが望むのはそれだけ。その後のことはどうだっていいんだ。
ぼくの言ったことを聞いたか? あれは意味のない衝動だった。そもそもの苦痛を生み出した直観の一つに過ぎない。ぼくは存在していることに……満足していると思う。でもそうじゃなくたって大した違いはない、ぼくは宇宙を曇りのない目で見た。ぼくは銀河が衝突するところも実時間で見たんだ。特別な疑問も思い残した質問もぼくにはありはしない。生存のトートロジーを克服してしまえば、もう理由なんてなにもないんだ。
通信が途切れそうだ。もうこれを続けていられない。
ぼくにはわからない。ひょっとするときみはあいつと交渉できるかもしれない。もしそれが本当にきみの望みなのならば、あいつはきみを生きながらえさせるかもしれない。パーマーと一緒にいたほうがいいのかもしれない、ぼくにはわからないけど。きみのことをあれだけ気にかけているのだから、きみが望むものをなんでも造ってくれるかもしれない。きっとクレオとまた一緒になれるかもしれない。今回はうまくいくかもしれない。
怖がることはないよ。悲しむこともない。ぼくの人生はいい人生だった。ぼくたちの人生はいい人生だった。 そして人類でいるのは……一度こつをつかんでしまえばその価値のあるものだった。随分と長い間かかったけど、 ようやく子供っぽい感傷を捨て去れた。解決できたんだ。
ひょっとするとそれを伝えられるかもしれない。ぼくが学んだことを、太陽の寿命の半分を費やして学んだことをパーマーに教えるんだ。愛を、憎しみを、善を、悪 を、正義を、過ちを、捨て去った後に何が残ったのかを。 もしよかったらだけど、そうしてくれないかな?
ねえ、フィル。きみは認めたくないかもしれないけれども。残ったのは優しさなんだよ。
人類はようやく優しさを学んだんだって伝えてくれないか。
……フィル……?