翻訳短編:ケリー・ロブソン「二年兵」

二年兵
Two-Year Man

ケリー・ロブソン 作
藤川新京 訳

「二年兵」として皆に蔑まれているミケルは妻と二人暮らし。 ある日彼は清掃員として働く研究所で奇妙な赤ん坊を拾う。ようやく一人前の父親になれたと喜ぶミケルだったが…… 歪んだ父性のかたちを描く戦慄のホラー。 

初出
Asimov’s Science Fiction, August 2015

著者紹介
ケリー・ロブソン

2015年に9/11直前のアメリカを舞台に少女と寄生エイリアンの交流を描いた“Three Resurrections of Jessica Churchill”でデビューし、短編を中心に発表し身体性に密着したホラーで人気を博している。2018年に洋館を舞台にしたゴシックホラー“A Human Stain”でネビュラ賞ノヴェレット部門を受賞。

作者ページ
https://kellyrobson.com/

本翻訳は作者の許可を得て掲載しています。


警備をかいくぐって赤ん坊を連れ出すのは簡単だった。ミケルはもう何年も前から研究所から食べ物をこっそり持ち出し続けていて警備員の目を誤魔化す方法を知り尽くしていた。

ミケルは決して賢くはなかったが警備員は四年兵で、つまりは怠け者だった。退勤するとき弁当かごの上に何かいいものを置いておけば、彼らはそれを掴み取ってもうそれ以上は詮索しなかった。食べかけの黒いトリュフチ ョコレートの箱や古くなったペイストリーは彼らに渡し、いつも何か他の物をアンナのために持ち帰った。
大抵は、萎んだリンゴや固いオレンジや酸っぱくなったミルクや湿った砂糖の小袋や出涸らしのティーバッグだったが、たまには掘り出し物もあった。一度八年兵のオフィスのごみ箱の中にまだ動くメディアプレイヤーを見つけたことがあった。警備員に見つかれば盗難を疑われると思ってほとんど焼却炉に投げ込むところまでいったが、結局六年兵のシャワールームで見つけた染みのついたヌード雑誌で警備員の気をそらしアンナのもとに持ち帰った。

彼女はそれを小さなストーブ二つと十キロの上等な小麦粉と交換した。二人は数か月の間小麦粉で作った団子を食べた。

赤ん坊は彼が見つけたものの中でも最高だった。じっとしていて静かないい子だった。彼はしばらく赤ん坊を焼却炉のそばのぬくもりの中で抱きしめ、その奇妙な黄色いくちばしがたてるゴロゴロカチカチという音を聞いた。赤ん坊をきれいなぼろ布にしっかりくるみ、そのかぎ爪でちいさなピンクのおなかを引っ掻いてしまわない ように、ずんぐりした手は特に気を付けて片方ずつ包ん だ。それから彼は赤ん坊をプラスチックの弁当かごの底に寝かせて清潔な用務員のつなぎを被せ、六年兵ラウンジで見つけた昨日のペイストリーの箱をその上に乗せた。「アップルシュトゥルーデルか」早朝のシフトについていた警備員のハーマンが唸った。「あの生っ白い研究者さんたちは旨いものってのを知らないからな。アップルシュトゥルーデルを残すとはね」

「ウィーンじゃスルッカのシュトゥルーデルが一番うまいって話ですね」ミケルは保安ゲートを通り抜けながら言った。

「よく知ってるじゃないか、間抜け。これがなきゃ通さんところだったぞ」

彼は頭を下げ床をじっと見た。「電子レンジで温めておきました」

警備員が温かいシュトゥルーデルを食べている間に彼は灰色の冬の光の中に歩き出た。

角を曲がるやいなやすぐ赤ん坊の様子を確かめそのあとも家に帰るまで数分ごとにそうした。誰にも見られないように気を付けたが、早朝の路面電車はほとんどがら空きで、二年兵が弁当かごに顔を突っ込んでいるのを見て不思議がるものは誰もいなかった。

静かないい赤ん坊だった。アンナも喜ぶだろう。そのことを考えていると帰る間ずっと体がぽかぽかと暖かか った。

アンナは喜ばなかった。

赤ん坊を見せると彼女は床の上にへたり込み、しばらく何も言わずただ口を開け閉めしていた。ミケルはそばにしゃがんで待った。

「連れてくるのを誰かに見られた?」

彼女はミケルの注意を引こうとするときいつもするように、その手をぎゅっと強く握りながら言った。

「いいや」

「そう。しっかり聞いて。この子は家には置いておけない、わかる?」

「この子には母親が要るよ」

「研究所に戻してきて。起きたことはすべて忘れて」

アンナの声にはこれまで聞いたことがないような棘があった。彼は振り返ってかごから赤ん坊をやさしく抱き上げた。赤ん坊は空腹に震えており、その気持ちがよく分かった。

「食べ物がいるよ。ミルクは残ってたかな?」

「そんなことしても仕方ない。どうせ死ぬわ」

「僕たちなら助けられる」

「くちばしはろくでもない奇形だわ。もし健康でまともな子供だったら保育室に送られてるはず」

「この子は強いよ」

ミケルはおくるみをほどいた。赤ん坊は鼻をすすり、白 っぽくなったくちばしから青い尖った舌を突き出した。

「ほら。太ってて元気だ」

「呼吸できてない」

「僕たちを必要としてる」

なぜアンナにはそれがわからないのだろうか。こんなに単純なことなのに。

「今晩戻してきて」

「それは無理だ。警備員は弁当かごをX線に掛けるからばれてしまう」

赤ん坊を抱いてみれば、アンナもわかってくれるだろう。彼は赤ん坊をアンナの胸に押し付けた。彼女は飛びのいた勢いでドアに頭をぶつけた。そこで彼女は立ったまま震える手で家政婦の制服を直した。

「もう行かなきゃ。また遅刻はできないから」


彼女はコートを羽織り、足早にドアを通り、それから振り向いてこちらに手を伸ばした。彼は一瞬赤ん坊に手を伸ばしているのかと思い笑みを浮かべたが、彼女はただ彼の手を再び握っただけだった。

「あなたがなんとかして、ミケル。これは正しいことじゃない。この子は私たちのものじゃないの、育てたりはできないわ」

彼は頷いた。

「また夜にね」


冷蔵庫に残っていたのは冷めたシチューだけだった。ミルクはここ数日ほど切らしていたが、台所のテーブルの上に朝食が畳んだふきんを掛けられて用意されていた。スクランブルエッグはまだ湯気を立てていた。

彼はスクランブルエッグを少し手のひらに載せ吹いて冷ました。赤ん坊は目を大きく見開いてもがき、彼の手のひらのほうに手を伸ばした。かぎ爪が彼の手首をこすりくちばしが大きく開いた。その喉の奥で赤と黄の縁取りがある青いひだが震えるのが見えた。

「いい匂いかな? ちょっとくらいあげても大丈夫だよね」

彼は卵を少しずつ与えた。赤ん坊は雛鳥の貪欲さでそれを飲み下した。彼女が眠りに落ちるところを眺めながら彼は冷めてしまったコーヒーを飲んだ。

彼は紙ナプキンを濡らし、くちばしの両脇にある小さな鼻孔を覆っている薄い粘液の膜をふき取った。鼻孔は小さすぎたが口で十分呼吸できているようだった。ただ、彼女は泣き声を上げず鼻をすすってあえぐだけだった。それにくちばしが重すぎて頭がわきに向いた。

彼女は汚れ、焼却ごみ箱の中の血にまみれていた。黒くて繊細な髪の毛は糊のようなにおいのする滓でがっちりと固まっていた。お風呂と暖かい服とおむつが必要だった。それに手を覆うための何かも。かぎ爪の先を切る必要があるかもしれなかった。

彼は赤ん坊が目を覚ますまで抱いていた。それからストーブを二つとも寝室から台所に持ってきて、「強」に設定しシンクで赤ん坊を風呂に入れてやった。入浴は厄介な仕事で二時間近くかかった。彼女はその間ずっとすんすんと鼻を鳴らしていたが、乾かしてきれいなタオルに包んでやるとやっと静かになった。彼は赤ん坊を台所のテーブルの上に寝かせた。赤ん坊は彼が床をモップ掛けしているところをながめ、明るい茶色の瞳でその動作をいちいち追いかけた。

台所がきれいになると、彼は研究所からくすねてきた半分空のフランス製の石鹸のボトルを探し出し、赤ん坊が寒くないようしっかりくるみ、アパートの裏階段に座ってハイアムが部屋から煙草を吸いに出てくるのを待った。

「そいつは何だ?」

ハイアムは言った。

「アンナが身ごもってるとは知らんかったな」

「そうじゃないんです」

ミケルはタオルをわきに取りのけた。

「ふむ。そいつは自然の奇形じゃないな。息はできるのか?」

「お腹を空かしているんです」

ミケルは石鹸のボトルを手渡した。

「腹を空かしてるって? ふむ。何が入用だ?」

「卵とミルク。服とおむつ、あとはあれば手袋も」

「そんな奇形は見たことがない。その子は自然の生き物じゃないな」

ハイアムは深々と煙草を吸いこみ、肩越しに赤ん坊から遠い方向に煙を吐き出した。

「研究所で働いてるんだよな?」

「はい」

ハイアムは赤々と燃える煙草の端をしげしげと見つめた。

「その厄介者を連れて帰った時アンナは何て言った?」

ミケルは肩をすくめた。

「隣には何も聞かれてないか?」

「はい」

「その調子だ」

ハイアムはゆっくりと言った。


「こいつは秘密にしておけよ、ミケル。分かってるな? 内緒だ。誰かに聞かれたらアンナが産んだと言うんだ」

ミケルは頷いた。


ハイアムは煙草を振りながら一語一語を強調するように言った。「もしまずい相手に知れると近所中で噂になっちまう。そうなったら本当の厄介事が起きるぞ。四年兵が家探しに来てアパート中のものを壊して回る。古き良きコロニーの日々の繰り返しだ。ぞっとしないだろ? ご近所さんにそんな迷惑かけちゃ」

ミケルは頷いた。

「ま、うちのかみさんは石鹸を気に入るだろう」

ハイアムは煙草をもみ消し階段を駆けあがっていった。

「ほらほら」ミケルは言った。赤ん坊が彼を見上げくちばしをかちかち鳴らした。「二年兵には何もできないなんて誰が言ったのかな?」

四年兵はいつもそう言った。彼らはそこら中におり連隊章を見せびらかし戦友同士背中を叩き合った。徒党を組み大声で自慢話をしながら場所を譲らせ押しのけて下級市民たちをバスや路面電車、店やカフェから追い出した。

六年兵も同じことを言うのかもしれないがミケルは話したことがなかった。研究所で彼らが遅くまで働いているのを見かけることはあったが、全く別世界の住民だった――スポーツカーとプライベートクラブでいっぱいの世界の。そして八年兵が何と言うのかは想像もつかなかった。ミケルは毎晩八年兵のオフィスの掃除をしていた が、その姿は映画でしか見たことがなかった。

誰も二年兵の出てくる映画など作らなかった。四年兵には名誉が、六年兵には責任が、八年兵には栄光が、そして二年兵には恥辱以外何もないと言われていた。でも本当はそうじゃない、ハイアムはそう言った。二年兵には家族がある。両親、祖父母、おじおば、兄弟姉妹、そして頼ってくれる妻と子供たち。彼らにはささやかだが世の中にとってなくてはならない仕事があった。二年兵がいなければ誰がごみを回収し、下水をさらい、カーペットを敷き、煙突を掃除し、屋根を直すのか? 二年兵がいなければ作物を収穫する者もおらず、甘い苺もおいしいワインもできない。そして最も重要なこととして、ハイアムは言った、二年兵がいなければ親たちが誰かを指

して息子に「ああはなるなよ」と言うことも出来ない。 ハイアムは賢かった。彼ほどの能力があればたやすく四年兵になれたはずだし、ひょっとすると六年兵にまでなれたかもしれなかった。しかし彼はユダヤ人で、それはつまりほとんど必ず二年兵にしかなれないということ を示していた。ジプシーやフッター派や平和主義者、歩 いたり喋ったりできない者、目の見えない者までもが皆動員され戦って死ぬために二年間の間コロニーに送られ た。四年兵が生き延び誇りを手にして帰るために戦い続けている間、彼らは恥辱と共に故郷に送り返された。

ハイアムが片手にビニール袋を提げ、もう片手には卵の箱を持って帰ってきた。脇にはミルクを一瓶抱えていた。

「こっちは大体おむつだ」彼は袋を掲げて言った。「おむつはいくらあっても多すぎるってことはない。食べ物より洗濯に金がかかるんだからな」

「手で洗えると思います」

「そいつは無理だ、保証するよ」

ハイアムは笑って言い階段を駆けあがった。

「父親の世界にようこそ、ミケル。これでお前も立派な家族持ちだな」

ミケルは赤ん坊をベッドに寝かせ、おむつを付けて服を着せ、アンナの爪切りでかぎ爪を切りそろえた。手に片方ずつ靴下を被せ袖にピンで留めた。それからアンナの枕をベッドと壁の間に押し込み、腕に赤ん坊を抱え眠りに落ちた。

くちばしの音で目を覚ました。赤ん坊は喉のカラフルなひだを露出させあくびをした。彼は赤ん坊の頭に手を被せ、そのミルクのような匂いをいっぱいに吸い込んだ。

「ママが帰ってくる前にごはんを食べましょうね」彼は言った。

ミケルはスープ鍋でミルクを温めた。乳房の代わりに哺乳瓶が必要だとは知っていたが、この赤ん坊、ちっちゃな賢い女の子はくちばしを大きく開けてくれたので彼はティースプーンで一さじずつミルクを飲ませることができた。赤ん坊は貪欲にミルクを飲みどんどん欲しがった。あまりにも早く飲むので直接喉に流し込んでもいいかもしれないと考えたが、高価なミルクを台所の床にこぼしてしまうかもしれないことを考えると躊躇われた。

「ミケル」アンナの声が聞こえた。

彼女はスカーフとコートを身に着けたまま玄関口に立っていた。ミケルは赤ん坊を腕に抱き、いつものように

アンナに挨拶のキスをした。その頬は冷たく赤らんでいた。
「今日はどうだった?」彼は尋ねた。赤ん坊がアンナの方を見てくちばしをかちりと鳴らした。
彼女は赤ん坊の方を見なかった。「遅刻したわ。間違ったバスに乗り換えてしまったの。それで戻らないといけなかった。スピヴェンさんに次やったら首にすると言われた」

「別の仕事が見つかるよ。もっといいのが。家に近くて」

「そうかもね。多分無理だわ」

アンナは鍋をすすぎ、シチューを入れてコンロにのせた。彼女はコートと帽子を脱がなかった。赤ん坊はコートのポケットに手を伸ばし、灰色の薄っぺらい毛糸の靴下から飛び出した短いかぎ爪の先で赤い手袋を引っ張り出した。手袋は赤ん坊の手からだらんとぶら下がった。アンナはそれを無視した。

「アンナ、コートを脱ぎなよ」

「寒いの」

彼女は言い、マッチを擦ってコンロに火をつけた。ミケルは優しく彼女の肘を引っ張った。彼女は一瞬抵抗してから向き直った。その顔は紅潮していた。

「ねえ見てごらん」


彼は言った。彼女は床に目を落とした。赤ん坊は再びくちばしをかちりと鳴らしあくびをした。「この子にはきみのお母さんにちなんで名前を付けようと思うんだ」

アンナは振り返ってシチューをかき回した。「どうかしてる。その子は育てられないって言ったでしょ」

「この子は君と同じ目をしてるよ」

スプーンが床に落ちがちゃんという音を立てた。アンナはよろめき、その肘が持ち手に当たり鍋がぐらりと傾いた。ミケルはそれを支えコンロの火を消した。アンナは椅子を引き寄せ崩れるように座り込んだ。少しの間頭を手で押さえてから座りなおした。彼女は目を冷たく細め、厳しい声で言った。

「なんでそんなこと言うの? もうやめて」

なぜアンナにはわからないのだろう。こんなに賢いのに。彼よりもずっと賢いのに。彼にはよくわかるというのに。

ミケルは慎重に言葉を選んだ。「きみの卵子。どこに行ったんだ?」

「どうだっていい。お金が必要だったから卵巣を売った。それだけ」

彼は妻のあかぎれた手に指を走らせ、手のひらのたこに触れた。辛い事実を伝えることになるがそれでわかってくれるだろう。

「きみの卵子がどこに行ったかぼくにはわかる。タンクの中で毎晩見てる。研究室の中で。焼却炉の中で。いつも血をモップで拭いてる」

アンナはきっと一文字に口を結んだ。彼には頬の裏側をぎゅっと噛んでいるのが分かった。

「ミケル、卵巣を売る女の人はいっぱいいるの。何千人も。誰の卵子かはわからないわ」

彼は首を振った。「この子はきみの子だ。ぼくは知っている」

「あなたは何も知らないわ。どんな証拠があるというの?」彼女は吠えるように笑った。「だいたい私たちがこの子を育てることは無いんだからどうだっていい。誰かに見つかってこの子は連れていかれてたぶん私たちは二人とも逮捕されるわ。少なくとも仕事は失う。路上で暮らすことになってもいいの?」

「きみが産んだと言えばいい」

「くちばしのある子供を?」

ミケルは肩をすくめた。

「そういうことも起きるよ」

アンナの紅潮した顔がより鮮やかな色を帯びた。彼女は泣かないようにじっと堪えていた。彼は身を乗り出して抱き寄せようとしたが、彼女は身をかわした。アンナは泣くとき絶対に彼に抱きしめさせなかった。

彼らは黙ったまま食事をした。ミケルは彼らの間のテーブルの上で眠る赤ん坊を見た。柔らかな頬はほかの赤ん坊と同じように丸々としていたが、くちばしにぶつかるあたりで広がってえくぼのようになっており、皮膚は薄く爪のように固くなっていた。赤ん坊は鼻をすすり、小さな鼻孔の片方に鼻ちょうちんができたので彼は指先でそれを拭った。

アンナが皿を集めシンクに入れ、ミケルは時計に目をやった。あと数分で研究所に行く時間だった。彼は赤ん坊を抱き寄せ間近で見た。瞼がぴくぴく震え、繊細なまつ毛が目やにでくっついてしまっていた。

「もう出る時間よ」アンナが言い、テーブルに弁当かごを置いた。

「すぐに行く」彼は言い、水のグラスにナプキンを浸して赤ん坊の目を拭いてやった。

アンナはシンクのふちにもたれかかって言った。「ミケル。どうして私があなたと結婚したか分かる?」

彼はびくっとして座りなおした。アンナは普段こんな喋り方をしなかった。いつも不思議に思っていた。彼女はもっとうまくやれていたはずだった。より賢い男、ひょっとすると四年兵の男とでも結婚できていたはずだった。

「どうしてだい?」


「私はあなたが気にしないって言ったから結婚したの。子供はできないって言ったけどそれでもあなたは愛してくれるって――」

「もちろん愛してるよ」

「私に子供ができない理由も言った。どうして卵巣を売ったのか。覚えてる?」

「きみのお母さんは病気だった。それでお金が必要だった」

「そう。でも子供が欲しいと思ったことはなかったからそれは難しいことじゃなかったとも伝えた。私は母親なんかになりたいと思ったことは一度もなかった」彼女は身を前に乗り出し彼の肩をつかんだ。「今でもそう。この子を研究所に戻してきなさい」

ミケルは立ち上がり、赤ん坊の額にキスをし、そして赤ん坊をアンナの腕に抱かせた。

「この子の名前はマリアだ。きみのお母さんと同じ」

バス停まで歩くとすっかり疲れてしまった。だがこれが父親になるということだった。だんだん慣れてゆくだろう。そしてアンナも母親になるということに慣れていく。それは確かだった。全ての女性がそうなのだから。妻と子供のことを考えるとヨーゼフシュタット停留所まで行く間ずっと体が温まった。そこで四年兵に脇へ肘鉄をくらわされ、コートに唾を吐きかけられた。彼は唾が凍って白くなるのを見つめ、震えながら道の縁に立ち邪魔にならないよう気を付けた。

彼はアンナが常に正しく寛大に振舞うと信じその優しさに頼っていた。彼女は彼に良くしてくれたし、皆にも良くしていた。十年間もの間彼の世話をし料理を作り二部屋のアパートを暖かい家庭に作り替えていた。代わりに彼はアパートをできる限り愛でいっぱいにした。彼にできることはそれだけだった。

駅の縁で吹きさらしのなか立っていると寒気と共に疑いが忍び込んできた。なぜアンナは母親になりたくないと言ったのだろうか? なりたくないはずがはない。二人は家庭に囲まれて暮らしていた。幸福で騒がしい、三世代、四世代、時には五世代が一緒に住んでいる家庭。健康な子供たち、幸せな母親、誇らしげな父親。おじ、おば、いとこ、孫。そこらじゅうに家族がいたが、ミケルとアンナは二人きりだった。

子供ができないことを悲しんでいるはずなのに。どこか奥深くの部分では子供を望んでいるに決まっている。そうではないと言ったが、もし本当ならどこかがきっと壊れているんだ。

彼はコロニーでの二年のあいだで、壊れた男たちを見てきた。彼らは満足な五体と壊れた心を持ち、狂ったことを言って自分自身や他人を傷つけた。アンナが彼らのようであるはずはない。

しかし疑いは家から一歩ずつ離れるにつれてどんどん大きくなっていった。降りしきる雪の向こうに研究所の明かりが見えだすころには、疑いに心を捕らわれていた。朝帰ってみるとアンナが一人で仕事に行く準備をしており、まるでマリアなど最初からいなかったかのように振舞っているという光景を彼は想像した。

彼は家の方向に振り返ったがそこで四年兵の一人がガラスのドア越しに怒鳴ってきた。

「遅刻だぞ、この間抜け」

ミケルは弁当かごがX線装置を通るのを眺めた。警備員たちはただ時間を浪費するためにかごを前後させた。定時に間に合うためには走らねばならず、ちょうど時計が八時を打った時になんとかタイムカードを押すことがで きた。

普段の彼はこすり、モップを掛け、拭く仕事のリズムを愛していた。トイレ掃除さえも楽しかった。彼は蛇口の漏れ、陶器の傷、タイルの割れ目の一つ一つを知っていた。毎晩時間をかけて、全ての隅に埃が残っていないか確かめ、汚れを探し全ての窓と鏡をよく眺め、トイレの床に膝を突き、雑巾を掛けて目地から漏れるかすかな 水滴を拭き取り、隅々までチェックしてリストを作った。今夜は急いで仕事をしたが、どの部屋も普段の二倍時間がかかるように思われた。彼は予定に遅れているのではないかと思って何度も時刻を確かめた。アンナのことを考えていると時間があっという間に過ぎていった。心配していると忘れっぽくもなった。四年兵のトイレを掃除した記憶がなく、わざわざ戻って確かめる羽目になった。

タンク室まで来ると気分がよくなってきた。彼はタンクの立てる騒音――ポンプの水音とモーターの重い音――

が好きだった。いつも何があってもここには時間をかけ た。ここが一番お気に入りの場所で、タンクに触ることは本来禁止されていたが、いつも数分余計に使って鋼鉄とガラスを磨き、ホースのパッキンを確かめるのだった。 彼は重たいタンクを床と天井に固定しているボルトを締め直しさえした。

色付きのガラスを通してかろうじて中に浮かぶ赤ん坊が見えた。ミケルは彼らが育つのを夜ごとに観察した。彼はタンクを磨くためだけに、六年兵が数年も前に捨てたセーム革を特別に取ってあった。それは貴重な何かのために作られた特製品だった。スポーツカーメーカーのロゴはとうにかすれて消えていた。いつも彼は長くゆっくりとした愛撫するような手つきでガラスを磨き、赤ん坊がそれを感じてくれると信じていた。

タンクのうち二つは空だった。ミケルは次の赤ん坊にとって完璧な場所になるようそれも磨いた。マリアのタンクは部屋の一番向こう側の列の端から二番目だった。タンクはすでに補充されていたが、新しい赤ん坊はまだタンクの上の方にある肉塊めいた器官からさがった細いフィラメントに過ぎず、小さすぎて見えなかった。

「お姉ちゃんがこんにちはって言ってるよ」ミケルはささやいた。「お姉ちゃんのママとパパはお姉ちゃんのことを誇りに思ってるからね。マリアは賢く強い子に育つんだから」

繊維は液体の中でねじれ揺らいだ。彼はそれをしばらく眺め、アンナとマリアが今何をしているのか考えた。二 人がベッドで丸まり、肌を寄せ合い、アンナが頬の下に赤ん坊のくちばしを入れているさまを想像した。まるで強く望めばそれが実現するとでもいうように、彼は目をぎゅっと閉じてその様子を心にとどめた。タンク室の心地よい音に助けられ、しばらくの間そのまぼろしは現実のように思えた。

しかしいつまでもそこに居るわけには行かなかった。苦労しながらオフィスへとゴミ箱を運んでいるときに再び心配が襲ってきた。

女たちはいつも赤ん坊を捨てた。アパートに住む母親や祖母たちは心無い異常な母親によって寒い中に捨てられた哀れな赤ん坊の話をいつもしていた。新婚だった時一度、隣に住む女性に人間は追い詰められると捨て鉢な行動をするものだとアンナが言ったことがあった。隣人は数年たった今でもアンナとは会話しようとはしなかった。

もし彼女がマリアをくるんでどこかの六年兵の家のお もてに捨てたら? それか駅に置き去りにしたら? 大きな台所かごに入れられタオルに包まれたマリアが、そして赤いスカーフで顔を隠し東駅の急行プラットフォームにそれを置いて立ち去るアンナが見えた。
いや、アンナはそんなことは絶対にしない。絶対にだ。彼はそれ以上は考えないことにし、仕事に集中しようとした。

彼は八年兵のオフィスの大きな樫のテーブルの上に、のっていたブランデージャムがぱりぱりに乾いてしまっている桃のペイストリーが四つ残されているのを発見した。くしゃくしゃになった菓子箱がごみ箱に捨てられていた。部屋の掃除を終えると彼は箱をできるだけ元通りに折り直し、ペイストリーを中に入れた。四つあったのは幸運だった。警備員一人につき一つずつだ。それから彼は地下へと降りた。

焼却炉はレンガの壁に埋め込まれた鉄の胃だった。何年もの間、ミケルが熱い赤い光に照らされたコンクリートの階段を下りると、研究所で補佐をしている四年兵によって捨てられた後の血まみれの空っぽの医療廃棄物ケースが置いてあったものだった。そのころの彼の仕事はゴ

ミ箱の中身を焼却炉に入れて燃やし、ガスを止め、ケー スを綺麗にし、床を水洗いし、モップを掛けて水気を取 ることだった。
しかし新しい八年兵が責任者になってから、ミケルが 焼却炉を始動して廃棄物ケースの中身を捨てなければな らなくなった。
頭上の電球は暗く、かろうじてケースから排水口まで 続く血の跡が見えた。彼は制御盤のところまで手探りで 進んでゆき、焼却炉を点火する面倒な操作を始めた。ガ スのつまみは固く、点火ボタンは緩くなっていた。点火 針を叩く正しい角度を探して彼は何度もボタンを押した。ようやく焼却炉が始動した時にはつなぎの中で汗だくに なっていた。

部屋が焼却炉の窓からの明かりで照らされ、ようやくケースの中身が見えるようになった。一番上の袋は赤や黄色がかった液体を滴らせていた。ほとんどは二重三重に袋に入れられ堅結びにされていたが、破けて中身が漏れ出していた。袋が廃棄シュートを落ちていくうちシュートのとがったふちに引っかかって破けたのだった。

マリアは一重の袋に入っており、くちばしがビニールを突き破ったおかげで呼吸できていた。その上彼女はケースの一番端にほとんど仰向けに落ちた。もしうつ伏せに落ちていたり上に別の袋が被さっていたりすれば彼女は窒息していただろう。

ミケルは焼却炉の蓋を開け、濡れた袋をケースから一つずつ注意深く取り出して炉の奥に投げ込み始めた。いくつかの袋は小さく、ガラスのシャーレと塗抹標本が何個か入っているだけだった。ある袋にはシャーレが一杯に詰まっており、裂け目からこぼれ出して彼の足元で砕けた。一番大きな袋には透明な液体が詰まっており、炉の奥の壁にぶつかり熱気で弾けて肉のようなにおいを放 った。彼は血まみれの袋をわきに除け、でこぼこのコンクリートの床のガラス片が散らばっているところから離れた場所に慎重に置いた。

ケースが空っぽになるとミケルの心にも穴が空いた。彼は振り向いてガラスを蹴散らしながら少しは暑さがましな部屋の向こう側へと歩いて行った。

タンク室には空のタンクが二つあった。彼はつい数時間前にそれを磨いたばかりだったが、そのときはアンナとマリアのことを考えていてあまり注意を払わなかった。彼は今は空になっているタンクに入っていた赤ん坊たちを知っていた。一人は細い毛に覆われたがっしりとした体をした男の子で、もう一人は端がずんぐりしたこぶ のようになっている腕を四本生やした小さな女の子だった。彼らは今どこにいるのだろうか? 保育室に送られ たのかシュートを通ったのか? もしシュートを通ったのなら今ケースの中で、彼の手によって血とタンクの液体と共に炎の中に放り込まれるのを待っているはずだった。失敗した実験といっしょに。

彼は血まみれの袋の一つを結び目のところで掴んで持ち上げて重さを確かめながらもう片手の手で中身を探った。液体が重く揺れ袋の側面にシロップのようにくっついた。いくつか固形物があったが、赤ん坊と呼べるような大きさのものは無かった。彼はその袋を炉に投げ入れもう一つ持ち上げた。

家に帰ったらマリアはいなくなっているだろう。彼にはそれが分かった。そのことを考えると胸にぽっかりと空洞が、マリアを抱いたちょうどその場所に彼女の形をした空洞ができた。でももしマリアがいなくなってしまっていても、もしアンナが彼女を駅に捨てに行っていたとしても、それはただアンナには時間が必要だというだ けだった。彼女に時間をあげよう。彼女がいつも彼にそうしてくれたように、忍耐強く、優しくしよう。そうすれば壊れた部分も治って子供を愛するようになるだろう。きっと素晴らしい母親になるだろう。たぶん今日は無理でも、じきに。

もっと赤ん坊を見つけよう。毎晩探そう。マリアが生き延びたのだから、他の子供たちも生き延びているはずで、みんなきっと見つけよう。みんな見つけてアンナが治るまで家に連れて帰ろう。家を愛でいっぱいにしよう。彼にできるのはそれだけだったから。

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カテゴリー: 翻訳

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