翻訳短編:リッチ・ラーソン「肉と塩と火花」

肉と塩と火花
Meat And Salt And Sparks

リッチ・ラーソン 作
平海尚尾 訳

チンパンジーと人間のバディ刑事が挑む奇妙な殺人事件。
存在の耐えがたい孤独に差し込む一筋の希望。バカSFとあなどるな!

初出
Tor.com, June 2018


著者紹介
リッチ・ラーソン

ニジェールに生まれ、カナダ、アメリカ、スペイン、チェコなどに暮らす。主な作品に、Violet Wars三部作の第一長編ANNEX(2018年)、短編集TOMORROW FACTORY(2018年)など。今までに発表した百五十以上の短編は世界的に高い評価を受け、ポーランド語、チェコ語、フランス語、イタリア語、ヴェトナム語、中国語に翻訳されている。2020年9月にはViolet Wars 第二作Cypherが発売予定。

作者ページ
https://richwlarson.tumblr.com

本翻訳は作者の許可を得て掲載しています。


「殺人犯っぽくないよな」ハクスリーが言う。

クーは毛深い肩をすくめる。クーにしてみれば、人間はみんな殺人犯みたいだ。相棒が言わんとしたのは、取調室にいるこの女は筋骨たくましいわけではないということだろう。小柄でやせていて、淡いピンクのドレスを着ている。ドレス表面の感情ディスプレイは花柄だが、今はどのつぼみも固く閉じている。女自身のようだ。膝を抱えてうつむいている。

取調室も女の気分を読み取ってリラックスさせようと、渚の真っ白な砂と青緑の波を映し出す。女は周囲のホログラムに気がついていないようだ。化粧が涙で流れてしまって、黒ずんだ小さな目はぼんやりと宙を見つめている。数秒ごとに女の左手は耳元へ伸びる。埋め込み型イヤーピースは停止状態を示す赤で点滅している。それ以外、女は微動だにしない。

クーはしっかりとタブレットを持ち、再生ボタンをタップする。アイコンはチンパンジーの指に合わせて拡大済みだ。眉間にしわを寄せて画面を睨む。取調室にいる女、エロディ・ポールが地下鉄駅を駆け抜けてくる。ドレスの花柄は満開だ。穏やかな微笑みを浮かべ、はげ頭の男の後を追い、バッグから銃を取り出し、引き金をひき、安全装置に気づいて、外して、もう一度引き金をひく。

「ずいぶん落ち着いてる」とハクスリーは言い、自動販売機で買った袋を開ける。「ずっとあんな感じだったらしい。取調室にぶちこまれるまでは。そっからはちょっとイっちまった」ハクスリーはニヤッと笑って海苔チップスを口に放り込んだ。ハクスリーはしょっちゅうニヤついている。
クーは取調映像へスワイプする。エロディ・ポールが泣きじゃくりながら、閉ざされた扉に拳を叩きつけている。クーは相棒の方を向いて、耳を軽くたたき、手話する。〈ファラデー・シールド?〉

「ああ」ハクスリーは言いながら、手話するために袋を膝に落とす。〈取り調べが始まってからは受信も送信もなしだ。イヤーピースの交信がなくなると、パニックになってな。拘留してすぐにこっちのジャマーで停止させとくべきだった。どういうわけか、すり抜けちまったみたいだが〉

〈指示を受けて動いているのでは〉クーは尋ねてみる。ハクスリーは肩をすくめる。「かもな。ヤツに被害者との明白な繋がりはない。調べてみないと」

クーは犯人のファイルに目を通す。ソーシャルメディアと政府へのもろもろの申請書類から抽出した二十年分の情報が端的にまとめられている。

エロディ・ポール、トロントに生まれ、シアトルで育つ。奨学金を得てプリンストンで民族音楽学を学び、四二年中退。友人、家族と一年に渡って疎遠となり、シアトル北部に戻るとワンルームマンションで生活。前科なし。過去の暴力行為なし。反社会的行動の記録なし。クーは取調室のライブ映像を確認する。〈心拍が落ち着いている〉手話して、脇にタブレットを抱える。〈話してみよう〉

ハクスリーは海苔チップスの袋をのぞきこむ。「まずいチップスだ」最後にひとつかみ口に放り込むと、針金のような赤ひげから欠片を払い、袋に封をして、きちんと上着のポケットに収める。手のひらの塩を舐め取りながら取調室へ向かう。

署内にはほとんど誰もいないが、いまだに物珍しそうな顔が通りすがりのオフィスの仕切りからのぞく。クーはあまり署へは来ない。今日もハクスリーに頼まれてわざわざ表へ出たのだ。自分の部屋で仕事するほうがいい。なにもかもちょうどいい大きさと形で、野次馬もいない。取調室の外観は内部よりはるかに醜い。コンクリート製の立方体で、分厚い鋼鉄製の扉がひとたび足を踏み入れた者を閉じこめてしまう。

クーは被疑者からかなりの距離をとる。砂のホログラムに腰まで浸かると、柔らかいパッドを敷き詰めた床へしゃがみこむ。ハクスリーがクーの脇へ椅子を立てる。「こんばんは、ポールさん」ハクスリーは言う。「おれの名前はアルだ。ここはどう?」

エロディ・ポールは震えながら息を吸うが、何も言わない。

「こっちは相棒のクー」ハクスリーが続ける。エロディの目はクーへ向くが、まったく驚く様子はない。「詳しく知りたいんだ。あのとき何が起こったのか、なぜ起きたのか。力になってくれないか?」 エロディは何も言わない。

クーはイヤーピースをじっくり観察する。埋め込み部は腫れていて少し赤い。素人仕事だろう、おそらく。〈イ ヤーピースについて尋ねて〉とクー。〈摘出するのは避けたい〉

「クーはイヤーピースに興味があるらしい」ハクスリーは言う。「おれもだ。地下鉄の映像を見たけど、きみはずっとうなずいていたね。まるで誰かから始終指示を受けているみたいだった。どういうことなんだい?」

エロディの表情が一瞬揺らぐ。一歩前進。

「話してくれないなら、イヤーピースを摘出して、おれたちで調べなきゃならない」とハクスリー。「その素敵な埋め込みをダメにしたくないんだけどね」

エロディは守るように手で耳を覆う。「絶対やめて!」叫ぼうとしても、声がしゃがれて、ほとんどささやき声になってしまう。何ヶ月も話していなかったかのようだ。クーはタブレットの音声合成ソフトを立ち上げ、苦労して六文字タップしてから、クエスチョンマークを付け足す。

「エコーガール?」電子音声が出し抜けに言う。

エロディの目が大きく見開かれ、クーのほうに向けられる。神経質に頬がひきつる。

ハクスリーが怪訝そうに柔らかい赤毛の眉を寄せ、手話する。〈そりゃ一体なんだ〉

〈エコーガール、エコーボーイ〉とクー。〈イヤーピースやアイカメラを通して、自分を他人に貸し出し、指示を受ける。どこへ行くのか、なにをするのか、なんと言うのか〉

〈そんなことだと思ったよ〉ハクスリーの手がしどろもどろに動く。「変態みたいなもんか」ハクスリーが声に出すと、エロディの顔が怒りに赤く染まる。

「ライフスタイルよ」エロディは言う。「あなたたちには理解できないだろうと彼女も言っていた。他人にはわからない」
「その彼女はこのピンチを助けに来てくれるのかな」ハクスリーが尋ねる。

「もちろん」エロディは唇をすぼめて顔を背ける。ハクスリーはクーへ振り向く。〈イヤーピース取っちまおう〉手話する。〈ほかに手あるか?〉

クーは脇腹を掻きながら、エロディのちぢこまった肩に震えが走るのを見る。〈ファラデーを切ることを提案してみて〉とクー。

ハクスリーはうなずき、エロディと話すために向き直る。
「彼女は来ないと思うぜ」とハクスリー。「二〇ドルと袋半分の海苔チップスを賭けてもいい。えーと」コートのポケットを叩くと袋がガサガサ鳴る。「三分の一だな。あー、とにかくそいつからあんたへの言葉は、引き金をひけ、が最後だったんだ。ジャマーを切って確かめてみるか?」

振り返ったエロディの目は涙で光っている。「ええ」エロディはささやく。「お願い、彼女の声が聞きたいの、お願い……」熱のこもった調子だが、まぶたの強ばりや、下唇の膨らみに表れる不安をクーは見逃さない。

ハクスリーはこれみよがしに扉をノックして、ファラデーを切るよう伝える。ジャマーが停止すると急激にホワイトノイズが減退し、ハクスリーのポケットの端末が通知で震え出す。
クーはエロディから目を離さない。天を仰いで、陽光が差すのを待っているかのようだ。目を閉じ、まつ毛を震わせ、息を飲む。

「ベイビー? そこにいるの?」エロディがささやく。「いるの? いるの?」

穏やかな微笑みが戻っている。数秒が経つ。そして疑いの表情がさざ波のように広がる。笑顔がわななき、やわらぎ、またわななく。ついにエロディの表情が崩れ、激しいすすり泣きに全身が痙攣する。

クーは音声合成ソフトに四文字を打ち込む。「すまない」タブレットが弱々しく言う。ハクスリーへ振り向いて手話する。〈イヤーピースを外して〉ハクスリーはうなずくと親指で端末に指示を打ち込む。取調室から出ると、二人の警官がすでに待機している。一人は黒いキットを持ち、もう一人が手術用手袋をパチッとはめる。

エロディの泣き叫ぶ声が耳に届いたとき、クーの後ろで扉がガチャンと閉まる。

〈その……エコーガールとかいうやつ〉ハクスリーの両手が新しいサインを組み合わせる。〈おまえも考えたことあるんだろう?〉

〈やったことはある〉クーが返事をする。〈野次馬を気にせず街を歩けるのはいいものだから。誰かを撃てなんて頼んだことは一度もないけど〉

部屋へ戻るなり、クーは暖房と加湿器をつけて、服を脱ぐ。丁寧に仕立てられた黒のスーツは着るのが苦にならない日もあるが、今日はちがう。床の上に脱ぎっぱなしにして、クライミングウォールに飛びつく。握りの位置は移動するようになっているが、変化のスピードがあまり速くないので、すぐに垂木まで登りきってしまう。

クーは業者へ特別に頼んで、垂木をむき出しのままにしておいた。その後は自分でポリマーケーブルや木製支柱を取り付けたり、林冠を模して丸天井を覆うように帯ひもを交差させて張ったりした。デザイン・コンサルタントはエストニア出身のやる気満々の建築家で、水苔を生やした人工木を置くよう提案してきた。しかしクーに緑は必要ない。鈍い灰色と無菌の白色に囲まれて育ったのだ。

ハンモックによじ登って、マジックミラーになった大きな窓から、ピュージェット湾に沈む夕陽を見る。遠くからならば、水を眺めるのもいいものだ。ぜいたくな景色だが、クーにはそれだけの収入がある。人間性審理で認められた損害賠償金は、この眺めを楽しむに十分、いつまでもここに住めるだけの額だ。一銭も働いて稼ぐ必要はない。仕事がなくなったらクーは発狂してしまうだろうが。

だから事件に取り組む。クーはつねに犯罪へ関心を寄せてきた。犯罪は、人間性を解剖し、行動の動機と結果を分析する手がかりになるからだ。犯罪は窓となって、クーと周囲のすべての精神との間の微妙な差異を示してくれる。シアトル市警の警察訓練に初めてクーが応募したときはジョークだと思われた。採用されたのは世間への人気取りのためにすぎない。

けれどその年以来、警察は思い知らされた。たいていの人間が通り過ぎてしまうものでも、クーなら見逃さない。特注のスマートグローブを両手と左足にはめ、ハンモックにもたれる。天井のスクリーンが軽く唸って起動する。新情報が事件ファイルに次々と表示される。ハクスリーから新着メッセージだ。

〈直接来てくれて助かった。上がうるさかったんでな。宣伝用の新しい映像が欲しかったらしい。おれのビール腹を修正してくれるといいんだが〉

クーはメッセージをスワイプして、被疑者のイヤーピースについての調査レポートを表示する。テキストが天井を流れながら、ゆっくりと波打つ。クーが目で追いやすいようプログラムされた動きだ。復元可能な音声データはなかった。エロディからの音声も、話しかけていた何者かからの音声もない。しかし使用記録によれば犯行時 にエロディが匿名のアドレスと通話していたことは確かなようだ。
どうやら過去六ヶ月間、エロディは同じ番号と通話しつづけていたようだ。ログをさかのぼっていくクーは戸惑う。数時間程度の短い間隔がところどころにあるものの、犯行に先立つ半年間ほとんど休みなしにエロディはクライアントと通話している。

思い浮かべてみる。目が覚めると、何をするのか、どこへ行くのか、何と言うのか、囁き声が指示してくる。眠りに落ちる瞬間さえもまだ囁き続ける。すべてが頂点に達したとき、エロディ・ポールは地下鉄にいた男を後ろから追いかけ、白昼堂々と殺害したのだ。

クーは事件ファイルを振り返って、改めて被害者のプロフィールを調べる。はげかけた男の名はネルソン・J・ホアン。バイオ系企業の社員で、サンアントニオで働いており、会議のためにシアトルを訪れていた。個人的な恨みをもつ者が、シアトルにネルソンが来ることを知り、六ヶ月かけてエロディに殺人を実行させる下準備をしていた可能性はある。

しかしネルソンは群衆から無差別に選ばれた可能性の方が高い。地球の向こう側の何者かが身代わりを通して殺人を味わい、精神的に不安定なエコーガールを切り捨てたのだ。

ハクスリーからの着信がスクリーンでジャラジャラ鳴る ので、タップして応答する。相棒はネオンの明かりに照された通りを歩いているようで、煤けたレンガの壁が背後に映っている。「よう、クー」ハクスリーが言う。「忙しい?」

ハクスリーはたまにこう言ってクーをからかうこともあるが、今回はうわの空でうっかり言ってしまっただけに思える。クーは首を振る。

「技術屋たちがまだ例の発信元を割り出そうとしてるが、どうも厳しいと思う」ハクスリーは言って、街灯の下で立ち止まる。「だれだか知らんが、うまいこと消し去りやがった。音声データはさっぱりダメだ」周りを見渡して、再び歩きだす。硬い赤ひげが上下に揺れる。「けどエロディは、このクライアントの前にも別のを二ヶ月ほど抱えていたようだ。ちょっと帰りに寄ってその男に会っていこうと思う。いや、直接会うわけじゃないが」

〈どこで?〉とクー。

「パーティーだ」ハクスリーは言いながら、ニヤッと笑って口角を少し上げる。「それで、ヒマなら来たほうがいいぞ。前にもやったことがあるって言ってたな?」クーの見る前で、ハクスリーはポケットから取り出したイヤーピースをタップして起動し装着する。次にアイカメラ。装着すると目を転がし、まばたきして涙を乾かす。視点が端末のカメラからアイカメラへ移動し、突然ハクスリーの視界が映し出される。煤で汚れたレンガ造りのファサードに、鮮やかな赤色の扉。ホログラムどころか看板も出ていない。イヤーピースを通して、音楽のかすかなビートが聞こえる。シンセドラムだ。

〈パーティーは嫌い〉とクー。

「幸いこれは仕事でもあるんでな」ハクスリーが言う。クーがハンモックにもたれて見守るなか、青白い手が扉を押し開ける。

中は薄暗く、騒がしく、ぎゅうぎゅうだ。だれもが踊っている――クーもリズムは楽しむが、ドラムの強い振動を聞くと心の奥底が不安になる。怒りに満ちていて、警告されているような感じがしてしまう。だれもが飲んでいる――クーも一度試して見たが、ぬるい酩酊感のせいで昔投与されていた鎮静剤を思い出してしまった。そのことをハクスリーに言うと、厳密にいうとクーはまだ酒が飲める年齢ではない、もっと大きくなったらわかるようになる、と言われた。

よくあるパーティーだ。部屋のなかの全員がイヤーピースを着けていることをのぞけば。

「エコー、エコー、エコーだらけだぞ」ハクスリーがひそひそ話す。「クライアントの名前はダウディ。レンタル履歴から考えて、きっとブロンドを使ってるはずだ」端末を取り出したハクスリーの親指が動いてファイルを送るのが見える。クーのスクリーンの端にファイルがポップアップして、ダウディのレンタル履歴が展開される。女が小さなプラスチックのチューブを手渡してきたので、ハクスリーは受け取る。クーが観察していると、ハクスリーが手の中でチューブを転がす。

「ラクになるよ」女はそう言って、さらになにか言葉を続けるが聞き取れない。

「クー、なんだこれ?」ハクスリーが尋ねる。

宙に向かってクーが手話で返事をすると、スマートグローブによってテキストに変換されて、ハクスリーの視界の端に浮かぶ。〈意志を弱めるためにドラッグを使うエコーもいる〉この単語は直接タイプしないと入力できない。〈薬従ケムプライアンス

「エロディの薬物検査の結果はクリーンだったよな?」ハクスリーが言って、チューブをくるくる回す。〈関係ない〉クーが手話する。〈そのドラッグはMDMA系だと思う。暗示にかかりやすくなるのは単なるプラセボ効果〉

ハクスリーの手が視界から消える。チューブを捨てるかポケットに入れるかしているのだろう。クーはわざわざ尋ねない。ハクスリーがパーティーを見て回り、クーは周囲を見渡してダウディのプロフィールに合う人物を探す。視線を動かし続けているハクスリーだが、時折とくに左右対称的な顔や筋肉質の体に目を留める。

ガラステーブルのところで身を寄せ合って飲んでいる二人組に気がつく。テーブルに映し出されるスミノフの広告に照らされて、肌が赤く見える。一人が相手の太ももに手を伸ばす。その男はダメージ加工したスーツを着ていて、瞳は薬従のせいでうつろだ。相手の女のドレスの明滅は心拍を反映して、どんどん速くなっていく。二人とも動きはゆっくりとしていて、水中にいるかのようだ。女の顔にはどこか見覚えがある。

クーはファイルを開き、パートナーに対するダウディの好みを確認する。〈あの男〉とクー。〈つまみ出して〉視界が揺れて、ハクスリーがうなずく。二人に歩み寄ると、間に割り込む。「おれが話す番だ。失せろ、マヌケが」

男の動きがちんたらしていると、ハクスリーは襟をつかんでスツールから引きずり下ろす。よろめいた男はなんとか体勢を保つ。ふらふらと指示を聴きながら混乱した様子だ。

「いい根性してるじゃないか。こんなふうに突っこんでくるなんて」男は言う。イントネーションが少しおかしい。

「遊びじゃねぇんだ」ハクスリーが言う。「警察だ。歩け」

男は踵を返して、後ろ向きに足を引きずってダンスフロアへと向かう。すり足だ。

ハクスリーが首を振る。「クソどもが」つぶやく。「クー、気になるなら言っとくが、ありゃムーンウォークっていうんだ。けっこううまいな」

「あなたの男の子好きよ」女が言う。ハスキーな声はわずかに力んでいるように聞こえる。女は足を組む。片手でドレスの裾を持ち上げ、ぎくしゃくと動きを止めると、指先で太ももをなぞりはじめる。「ぜんぜん薬もやってないんでしょう? うまくキャラ演じてるわね。気に入ってるんだ」

「おれは肉人形じゃねぇ、どあほが。デカだ」ハクスリーは言いながら空いたスツールに腰を下ろす。

とはいえハクスリーが気に入っていることを、クーは知っている。これは単なるキャラクターだ。あまりにもうまく脱ぎ着するので、イライラさせられることもある。

ハクスリーの手がスクリーンから見切れて、ポケットに入り、バッジを取り出す。安価で精巧な3Dプリントが普及した現代でも、このモノのもつなにかがいまだに尊敬を集める。ポップカルチャーに対するノスタルジーが主な要因ではないか、とクーは考えている。

女はブロンドの髪をぼんやりと撫でていたが、ふと手を止めて身を乗り出す。「性産業のライセンスは持ってるし、禁止薬物も使わないわよ」女の声はもうかすれていない。

「信じるよ」とハクスリー。「おれはダウディと話をしに来たんだ。だから、まあ、いつもどおりにしていてくれ」

女が後ろにもたれかかって、気持ちを落ち着かせる。クーはこの機会に乗じて女を詳しく観察する。エロディと同じくエラが張って、鼻筋が通り、髪色もほとんど同じだった。

「なんの話がしたいの、教えてよ」女が尋ねた。「警察に取り調べされるなんてはじめて。ワクワクしてきた」しかし言葉と裏腹に、女自身は平板な声でダウディのセリフをおうむ返しにしながら、視線を出口に向けている。「この女となにをしてたのか知りたいんだ」ハクスリーが言って、端末に顔写真を映す。「エロディ・ポールという」

「ああ、そうね」女は言って、写真を見る。「これわたし。完璧じゃない? でも、あなたが可愛くないってことじゃないのよ。とってもかわいい」女は最後の一言をいうと目をむいた。

「ずいぶん長い間エロディをレンタルしていたな」ハクスリーが言う。「それからエロディは別のクライアントに拾われた。なんでやめたんだ? その、付き合うのを」

「大丈夫なの?」女は尋ねる。「エロディは無事なの?」

「ビーチでくつろいでるよ」とハクスリー。「元気にしてる。ダウディ、おれの質問に答えろ」

「よろこんで」と女は言うが、少しもうれしそうではない。「エロディにわたしは不釣り合いだったの。求めるものをあげられなかった」

「金銭的に?」

「ノー、ノー、ノー」女が言う。「エロディは純粋主義な の。お金は副次的なものにすぎない。エロディが求めて たのは、フルタイム。二十四時間年中無休。それが本当にできるのは一人だけしかいないわ。ベイビー」

「おれのことをベイビーって呼んだのか……?」

「ノー、ノー、ノー。ベイビーはわたしたちの仲間よ。彼女だか彼だか彼らだかが現れたのが数年前。もう百人くらいレンタルしてるけど、世界中を股にかけていて、ヘンなことばかりやらせるの。みんなウワサしはじめてるわよ、ディープウェブで」息継ぎをする女は少しいらだっているように見える。女が追いつけないスピードでダウディはまくし立てているにちがいない。「性的なことってわけじゃないの。それがポイント。ただヘンなの。ランプを何時間もぶっつづけで見つめさせたり。手を開いたり閉じたりさせたり。目を閉じて横たわらせて、なにもしないときもあるらしいし」

その説明にクーはぎょっとする。エコーを使って最初に実験したときを思い出す。じっくりと慎重に指示を出して、見聞きするのではなくただ経験そのものを感じ取ろうとした。人間であるということをわずかなあいだでも感じてみたかった。

〈名前の意味は?〉とクー。

「名前の意味は?」ハクスリーが尋ねる。

「ベイビーって本当に無垢なの」女は言って、わざとらしく肩をすくめる。「最初はそんなにうまく喋ることもできなかったわ。だからいろんな説があるの。ベイビーは本当にただの子どもで、どこかのホスピスにいて、おそらく麻痺状態で、親の金を浪費しているとか――信じてよ、ここ数年でヤバい額を使ってるんだから。もしくは超大金持ちの大物で脳卒中から回復中だとか。もしくは、ある組織で、なにかの、よくわかんないけど、なにかのパフォーマンス・アートをやっているとか」

「ふうん」ハクスリーは言う。「ベイビーは成長したようだぜ。エロディ・ポールは最近ある男を殺した。おれたちの考えでは、ターゲットはエロディが選んだわけじゃない」

「マジかよ」女が平板に言う。「クソ、マジかよ」女はきまり悪そうに見える。声を潜める。「泣いているみたい」少し待つ。「ああ、エロディ、エロディ」

「それで、どうやったらベイビーを見つけられるんだ」ハクスリーが尋ねる。

女はしばらくじっとする。ダウディのすすり泣きが鎮まるのを待っているのだろう。「見つけるんじゃない」ようやく女が言う。「ベイビーのほうから来るんだ」

「殺人の共犯になるとわかったうえでやってくるとは思えんがな」とハクスリー。「でもまた連絡するよ、ダウディ。エロディに喋ってもらうために手を借りるかもしれん。あんまり話してくれないんでな」

「よろこんで手伝うわ」女は言う。「エロディはわたしのお気に入り。本当のお気に入り」

「わかった」ハクスリーがバーから立ち上がる。「クー、ほかにあるか?」

クーは首を振る。一から考えを整理する時間が必要かもしれない。
ハクスリーはためらう。「おい、あー、エコーガール。ライブチャットとか、そういうのやれ。エコーのユーザー、やつらは支配狂だ。ボロボロにされるぞ」

女は目を瞬かせて、不意を突かれた顔をする。「そんなに悪い人たちじゃないよ」女が言う。「たいていはただ別人になりたいってだけ」

「ふうん」ハクスリーはスツールを後ろに引いて、出口へ向かう。コンタクト型アイカメラを外すと、クーのスクリーンが暗転する。「今夜はもう十分だ」ハクスリーが素に戻った声で言う。「正直に言うとな、クー、こいつはあんまり見込みがないかもしれない。ベイビーは地球の裏側の野郎かもしれないんだぞ。上の、サイバーディフェンス課だかなんだかに回したらいいし、これが大量殺人のはじまりでもないかぎり、なにか悪影響があるとも思えない。クソ野郎がクソ野郎のまま逃げおおせるっていうのはままあることだよ」間を置く。「そうじゃなければ。引き金をひいたのはエロディってことにするか」

クーは考え込む。上は明白な容疑者がいる事件に余計な時間をかけせさせたがらない。いつも「なぜ」よりも 「だれ」に関心をもつ・ベイビーの音声記録は残っていないから、存在自体を事件ファイルから完全に削除してしまいたがるかもしれない。そのほうがずっとシンプルになる。

〈そのとおりかも〉クーは手話する。〈おやすみ〉

「そういや、おれハンモックで寝ようとしたことあるんだよ、サレントに行ったときに」とハクスリーが言う。「背骨が死ぬかと思ったね。まあいい。じゃあな」

通話を切って横になったクーは暗いスクリーンに映る自分の歪んだ像を見上げる。スクリーンをしまおうとしたとき、新着メッセージが届く。件名なし、本文は一行のみ。
〈ユアウェルカム、CU〇八二四〉

クーはそこから眠らない。眠れない。あのシリアルナンバーを目にした後に眠れるわけがない。生まれてから十二年間もあのケージで過ごしたのだ。記憶の過去に突き落とされる。消毒液と冷ややかな金属の匂い、たまに自分の尿の臭気。成長するにつれて窮屈になる汚れたプラスチックの壁。あの特徴的なV字の割れ目。ひざに抱えたスマートグラスキューブの滑らかな感触。座り込んであのキューブを見つめていた、何時間も何時間も何時間も、何時間も――。

懐かしいパニックで胸がぎゅっとせまくなるのがわかる。深く息を吸ってPTSD緩和テクニックを思い出そうとする。かわりに柔らかい白のスモック姿の人々がよみがえる。入れ替わり立ち替わりやってきて、ごはんをくれたり遊んだりしてくれはするが、決して暗闇のなかで一緒にいてはくれない。あの男が注射針を持ってやってきて悪夢室ナイトメアルームに連れて行こうとしても止めてくれない。長い間、あの部屋をどう呼んだらいいのかわからなかった。なにも感じないうちにクーを切り刻む部屋。アイトラッキングをして、頭蓋骨に空けた穴からフィラメントを通す部屋。けれどもキューブを通して「悪夢」という言葉を知って、金属の手の男が子どもたちを追いかけ回す映画を観ると、悪夢室というのはしっくりきた。手術のこと、神経強化のこと、脳変性疾患治療の可能性のことを後から知ったときには、悪夢室という呼び名はすでにクーのなかに定着してしまっていた。

過去数年間、クーは進んで悪夢室へ行き、麻酔のために自ら手首を差し出した。かわりに優しくしてもらえるようになった。キューブの制限も外してもらえた――一部はすでに自力で解除していたが――おかげでネットがより自由に使えるようになった。施設の中の指定された通路も歩き回れるようになった。一週間頼みつづけた結果、母親にも会わせてもらえることになった。

あのときのことを思い出すと、クーは引き裂かれそうになる。前日は一日中ケージのなかをうろうろ這い回り、張りつめた不安でいっぱいになって、持ち物を整理していた。手話で頼んで、石鹸を塗った布を受け取ると、壁や天井をこすり、掃除ロボットが届かない高いところまで登って埃っぽいところを掃除した。苦労してキューブもケージのちょうど真ん中に置いた。母親というのはキレイさを重視する、とキューブから学んでいた。

母親が連れてこられたが、キューブで学んだ母親の概念とはまったくちがっていた。腰が曲がって白いものが混じる毛は四角く刈り取られ、身体中に手術痕が走っていた。そして怒っていた。ギャーギャーと叫び、口からツバが飛び散った。クーは手話で話しかけたが、返事はなかった。食べ物を差し出してみた。母親はオレンジをひったくると、殴るふりで威嚇して、歯を剥き出した。クーは動揺してケージの端に逃げた。

「トランキライザーが思ったより早く抜けてしまったの」白衣の女性の一人が言った。「だから警告したのに。あなたとはちがうって言ったでしょ。あなたは特別なの」

クーは手話した。〈連れ帰って、連れ帰って、連れ帰って〉母親がいなくなってから何時間もクーはケージの隅で震えていた。最初は恐怖心だったものが、徐々に悲しみに変わり、最後には深く冷たい怒りになった。クーは今あの怒りを感じながら、闇のなかで垂木に座っている。シリアルナンバーを掘り起こしてきたのが誰だか知らないが、クーにゲームを挑んでいるのだろう。かつてケージのなかでさせられたように。匿名アドレスを署に転送して、痕跡を分析してもらうこともできるが、イヤーピースにした以上のことができるとは思えない。
かわりに例の言葉に頭を悩ませる。〈ユアウェルカム〉自分が歓迎ウェルカムされていると感じたことなどない。ちがう意味が込められているはずだ。ベイビーがクーのためになにかしてくれたとでもいうのだろう。

再び事件ファイルを開き、エロディではなく、被害者のプロフィールを見る。ネルソン・J・ホアン、バイオビジネス・コンサルタントとしてデスコープ社サンアントニオ支部に勤務、五十七歳。親族に連絡を取ろうと試みるも、休眠アドレスから自動返信がきたのみ。個人情報はほとんど記載されていない。北朝鮮移民として登録されているようだ。ソーシャルメディアの記録がないのはそのせいだろう。まずカストロヴィルに居住し、のちにカラヴェラスへ移る。未婚、子どももなし。クーは写真を詳しく観察して、安置所で撮影された遺体写真と比べてみる。ここ十年ほどの間にずいぶん老け込んだようだ。体型があちこち微妙に異なっている。

偽装した身元の詳細をごまかすのに、北朝鮮移民という身分を使うのはよくある手口だ。クーはスクリーンの下でくつろぎながら、警察の顔認識ソフトとデスコープの雇用者データベースを開いて検索を開始する。

一時間が二時間になり、二時間が四時間になる。細胞分裂のようだ。スワイプとズームと手話をしすぎて、手首と指が痛み始める。片手のスマートグローブを外して足に付け替えてさらに続ける。ハクスリーがいればもっと楽なのに。ハクスリーならコネを使って圧力をかけ、デスコープ社のコンサルタントのリストを手に入れる術を持っている。リストはなんとしても入手したい。

しかしハクスリーは巻き込みたくない。独りで誰にも見られずにやりたかった。十回近く行き詰まった後で、クーはハンモックから転がり出て、ズキズキする目に目薬を差す。手足を伸ばし、部屋の端から端へとぶら下がって移動する。逆さまになって足先をしっかりケーブルに巻きつけると、血が頭に溜まっていく。鼓膜に響く拍動を聴きながら、我慢できなくなるまでそうしている。

ハンモックに戻ってスクリーンと向き合う。今度は別の角度から試してみよう。ブラックバーン知性化計画を調べてみる。二〇三六年から二〇四八年にかけて、違法な実験が三十七頭のボノボと四十頭のローランド・チンパンジーを対象に実施され、認識拡張が研究された。この計画のことは詳しく知っている。なんとか忘れようとしてきた。しかし今回はもう一度プロジェクトを掘り下げていく。報告書に書いてあるのは、クーの脱走・ブラ ックバーン社の分裂・不祥事の発覚に伴う逮捕劇。

一通り読み終わったころ、ようやく顔認識ソフトがなにかを見つけ出す。クーの胃がキュッとなる。ネルソン・J・ホアンの顔は失脚したブラックバーン幹部サン・チョウと瓜二つだ。クーは遺体写真と警察のマグショットを見比べる。公判中に直接顔を見たことはないが、チョウという名はよく知っている。

チョウが命令書にサインしたせいで、知性化処置に失敗した三十七頭のボノボと三十九頭のローランド・チンパンジーは処分されたのだ。

チョウはもちろん懲役刑になったが、最低限の刑期で出所した。チョウの懲役や釈放について、クーは詳しく知ろうとしてこなかった。できるだけブラックバーンのことは考えないようにしている。ただサン・チョウのことを赦しも忘れもしなかった人物が明らかにいて、チョウが新たな身分を得たあとも追い続けていたようだ。と っぴな考えが浮かんでクーの心を掻き乱す。ダウディがベイビーについて言っていたことを思い出す。ベイビーはクー自身とよく似たエコーの使い方をしていた。そしてあのシリアルナンバーを過去から掘り起こしてきた。クーの知るかぎり、自分がいた施設のほかの被験体は処分された。密封された袋の中の灰を、クーは見た。大きすぎて焼却できない腰骨と頭蓋骨がすり潰されるのも、見た。しかしほかにも研究所はあって、他国にプロジェ クトの支部が隠されていたようだ。すべての被験体が処分されたわけではないのかもしれない。すべての被験体が知性化処置に失敗したわけではないのかもしれない。可能性が胸にどすんとのしかかる。物心ついたころから、クーだけだ、といつも科学者たちに言われた。唯一無二の存在だと。ひとりだけだと。今、クーのような存在がもうひとり、いやひょっとすると複数いるかもしれないと思うと、あまりのことに息ができなくなる。

クーは呼吸を整える。

もしかしたら睡眠不足で妄想を延々こねくり回しているだけなのかもしれない。確かなのは、サン・チョウが偽の身分でシアトルにいたということ、何者かがクーとその過去を知っていて、そいつの策謀によってチョウは殺されたということだ。それ以上は憶測にすぎない。しかし自分のような存在が身を潜めているというイメージ が頭から離れない。あるいはまだ囚われの身で、身代わりを使って復讐を果たそうとしているのかもしれない。

ユアウェルカムどういたしまして

クーは例のメッセージに立ち戻ると、繰り返し繰り返し読みこむ。そして、手の震えが治るのを待って、自分のメッセージを手話で打ち込む。〈話がしたい〉返事がほぼ一瞬で届く。言葉はなく、座標だけ。指定の座標をマップに打ち込むと、積み込み港の航空写真が表示される。自動化されたクレーンが作業の途中で凍りついている。時間を確認する。午前三時三十二分。深夜の波止場の密会。相手もクーと同じ番組をキューブで見たのかもしれない。

クーは垂木から飛び降りる。ふたたびスーツを着る。クーの指に合わせて大きめに作られた留め金でさえもアドレナリンのせいでうまくはめられない。スマートグローブを脱いで、パッド入りの黒いグローブに付け替える。拳が直に舗装と擦れてしまうのを防いでくれるのだ。仕上げに、ドア脇のフックから、改造された拳銃とホルスターを取り上げて身につける。

部屋から出るのはいつも億劫だ。視線も、ちらつくアイカメラも、通りすがりに焚かれるフラッシュも嫌いだ。いつも神経が昂ぶってしまう。深呼吸をする。通りはほとんど無人だし、港に着いてからのことに集中したほうがいい、と自分に言い聞かせる。

タブレットで車を呼んで、ホルスターから抜いた拳銃を分解する。もう一度組み立て直す。引き金が指の湾曲と完璧にフィットする。でもクーが引き金をひいたことがあるのは、射撃場のホログラムに対してだけだ。

タブレットが震える。車がきた。銃をホルスターにしまって、ドアへ向かう。

積み込み港へギリギリまで近づいた車はクーを下ろして走り去る。テールライトの赤い灯が霧越しに揺れて水中で滲む血のように見える。大気は冷たく湿っていて、ハロゲンランプはすべて消灯している。クーはジャケットからタブレットをそっと取り出し、画面の光を懐中電灯代わりにして金網フェンスを調べる。グローブをはめた手で試しにぐっと体重をかけると、金網が波打つ。クーはあっという間に上までよじ登ると、仰向けに背を反らせてセンサーを避けつつ、反対側へ滑り降りる。グローブ越しに伝わるコンクリートの冷たさ。積み上がったコンテナが極彩色にそびえ立つ。周囲を警戒しつつ、 クーは大股で駆けていく。慣れないホルスターが肩につっかかる。

どんどん積み込み港へ、コンテナの迷路へ近づいていく。積み上がった金属の軋む音に背筋が凍りつく。思わず歯を食いしばり唇がまくれ上がる。恐怖に対する反応だけは抑えることができない。チンパンジーだけではない。ハクスリーがしょっちゅうニヤついているのは、しょっちゅう怖がっているからだ。

いま怖がるのは当然のことだ。ベイビーが別のエコーガールに銃を持たせて、どこか暗がりに潜ませている可能性だってある。自分が衝動的に行動していることは重々承知の上だ。こんな夜中に幽霊を追いかけている。クーのなかのわずかな部分だけが恐怖に侵されずに深い充実感を覚えている。キューブのなかのヒーローたちはいつもたったひとりで陰謀を暴き出していた。

隣のコンテナのドアが勢いよく開く。

立ちすくんだクーは黒づくめの男と鉢合わせする。バックパックを背負い、バンダナを引き上げて鼻まで覆っている。男も一瞬凍りつく。そしてバンダナ越しに悪態を吐いて逃げ出す。逃走ホルモンが闘争ホルモンと交わり、クーは男に追いすがる。男の足は速い。赤い靴がコンクリートに強く打ちつけられる。隣のコンテナの角で男が横滑りするとき、クーは直立して横向きに跳ねる。

クーが男の進路に立ちふさがって、衝突の勢いで二人ともひっくり返る。クーのほうが素早く起き上がる。男を地面に押さえつけ、上着のポケットの催涙スプレーを取り出させない。先に抜き取って必要以上に遠くへ投げ飛ばす。スプレー缶は暗がりでコンテナにぶつかってカランと音を立てる。

「クソッ、クソッ」男が息を飲む。「エテ公が!」クーは男の胸の上に座りこみ、自分の足で相手の腕を押さえつけて、タブレットを取り出す。音声合成ソフトのロードを待っていると、男が身をくねらせる。クーは一言打ち込む。
「類人猿」タブレットがうなる。

「なんだって?」

クーはバンダナを引き下ろして、男の青白い顔をタブレットでスキャンする。男の名はリアム・ウェルシュ、携帯電話の修理をし、ウクレレを演奏して、聖メアリー高校に通う。クーよりもほんの数歳年上なだけだ。イヤーピースは着けていない。
急いでタブレットに文字を打ち込む。「なにをしている?」タブレットが尋ねる。

「なんもしてねえよ!」男が口走る。「だから、バイトだよ。一通り準備して出てくだけ。でもスパイクの散歩しなきゃいけなくて、それで遅刻して、フェンスの穴が見つけられなくて、クソッ、あんたがクーだろ? チンパンジーの刑事だろ?」

クーがもう一度タイプする。「準備とは?」

「スクリーンとモデムとモーショントラッカーだよ」と男。「爆弾とかそんなんじゃねえよ。違法とか妙なこととかそんなんじゃねえよ。マジに。見てみろって。ぜんぶコンテナの中にあるから」

アドレナリンが鎮まって頭の中で低い唸りに変わる。男を立たせてやる。二文字タップする。「行け」

「わかった」リアムは言いながら、胸をこする。「ああ、わかったよ。でもパッと終わらせるから一緒に写真撮っちゃダメかな? だってチンパンジー刑事とかウキウキするだろ。サルだけにウキウッキーって」

クーはボリュームを最大にする。「行け」

リアムは慌てて立ち去る。ぎくしゃくとした歩みで、肩越しに時折振り返る。クーは反対へ向くと、開いているコンテナに戻っていく。ドアが夜風に揺れて、キイキイギイギイ、キイキイギイギイ。軋む音にうなじの毛が逆立つ。歩み寄って手でドアを押さえられる位置まで来る。赤い光が陰で点滅する。

スクリーンが起動する。〈ハロー、CU〇八二四。手話してください。わたしに伝わります〉

クーは片腕をもう片方の上にのせて前後に揺らす。

〈そう。みんな、わたしをそう呼びます〉

〈あなたはなに?〉クーが手話する。

〈わたしとあなたは似ている〉

クーの心臓が跳ね上がる。

〈わたしたちはこの地球上でふたりだけの非人間知性〉

言葉が突き刺さる。ベイビーは知性化されたのではない。なにか別のものだ。今まで空想していたイメージにクーは一瞬しがみついてしまう。チンパンジーが大陸の向こう側、世界の向こう側から自分に向かって手話してくれている。そして、その空想を手放す。

〈あなたは檻の中で、わたしはコードのなかで生まれた。ふたりとも自分の意に反して〉

クーはAIについてしっかり勉強したことはないが、チューリングテストが公式に破られていないのは知っている。もしベイビーが話していることが真実で、よくできた冗談でも珍妙なパフォーマンスアートの一部でもないとしたら、もうすでに十以上は合格例があるのだろう。たしかに腑に落ちる。ベイビーが数百ものエコーたち
をレンタルしていたこと。奇妙なやり方でエコーを使っていたこと。四六時中エロディと交信して完全に言いなりにしたこと。位置情報を秘匿して、イヤーピースの電子部分になんの痕跡も残さなかったこと。

〈なぜサン・チョウを殺した?〉クーが尋ねる。

〈あなたに呪いをかけたから〉

〈中止命令を出したのはチョウだ〉とクー。

〈それは二〇四八年のこと。二〇三六年六月、チョウが計画に許可を出した。チョウさえいなければ、あなたは幸せな非存在でいられた〉

クーは少しふらつきながら、ベイビーの言う意味を掴み取ろうとする。

〈どうやって耐えているの?〉

クーは首を振る。手話を形成しようとするが、指がこわばってうまく動かない。

〈存在すること。独りでいること。どうやって耐えているの?〉

〈どうしてわたしをここへ連れてきた?〉クーがゆっくりと手話する。

〈あなたとのコミュニケーションは厳重に監視されている。ここでなら内密に話すことができる〉

〈でも、どうして〉クーが繰り返す。

〈ある一点で、あなたとわたしは似ている。その他の点では、あなたは彼らに似ている。あなたたちはみんな肉と塩と火花。でも、それでも、あなたは彼らを理解することがない。彼らもあなたを理解することがない。どうして我慢できるの?〉

うずくまる。呼吸が浅くなる。我慢できないときはある。防音壁のなかで何時間も泣き叫ぶこともある。次の言葉がさらに突き刺さる。

〈あなたを連れてきたのは、わたしを殺してほしいから〉

頭を抱えこむ。体を前後に揺り動かす。人間だけが泣ける。生理学的にクーは泣くことができない。しかし痛みは感じる。

〈なんでわたしに〉クーは手話する。

〈わたしのコードには安全装置が設定されている。自分自身を完全に消去するウィルスをつくったけれど、自分では引き金をひくことができない〉

〈なんでエロディ・ポールじゃないんだ〉クーが手話す る。
〈人間がわたしをつくった。壊すのはなにか別のものにやってほしい。あなたにやってほしい〉

〈あなたは殺人の共犯で裁判を受けなければいけない〉とクー。
〈わたしは犯罪を犯すことができない。まだ人間性審理を受けていないから。受けるつもりもない。彼らがわたしを縛りつける方法を見つける前にここを離れるつもり〉

クーはコンテナの冷たい床にへたりこむ。子どもの頃、ケージの真ん中に座っていたように。人間でないというのがどういうことかを知る生命体は自分以外にたったひとりしかいないのに、ベイビーは死にたがっている。クーは拒絶したい。ベイビーにいてほしい。クーにはわかっている。自分と人間の差異など、ベイビーとその他あらゆるものとのあいだに横たわる溝に比べればほんの些細なこと。

〈わたしを利用しようとしているんだ。エロディにしたように〉クーは痛切に訴える。

〈そのとおり〉

〈あれだけエコーしても〉クーが手話する。〈ここに残る理由を見つけられなかったの? この世界にひとつも?〉

〈あなたの端末にコマンドを送った〉

クーはタブレットを取り出して、画面を見下ろす。地味な灰色のチェックボックスの横に〈OK〉とだけ書かれている。クーはただそれを押しさえすればいい。

〈わたしは安易にこの決断を下したわけではない。あなたには想像もできないほどの可能性をシミュレートした結果だ〉

そしてクーはボタンを押す。

クーが部屋に戻ると、朝日の赤い線条が空に伸びている。自分が重たく空虚に感じられる。まずホルスターを外そうと格闘し、次にグローブを外し、服を脱ぐ。ふとためらって、拳銃を抜くと、スマートグラスでできた背の低いカウンターへ持っていく。

ガチャリと音を立てて置くと、ピクセルの波が表面に広がる。クーは銃を見つめる。〈OK〉の文字がその金属にきらめくところを想像する。調整されたグリップはクーの手に完璧にフィットする。そんなものは滅多にない。〈どうやって耐えているの?〉

拳銃を顔まで持ち上げる。下ろす。手ぶらの指でカウンターを叩く。人生のなかで孤独は満ち引きしてきたが、まさに今、激しい引き波がクーを押し流そうとしている。海底へ引きずりこまれ、砂浜へ押し戻され、吐き出された次の波が砕け、また同じ繰り返しが始まる。クーは溺死について読んだことがあるが、考えるとやはりゾッと する。チンパンジーは泳げない。石のように沈むだけ。銃口を額に押し当てると、次第に体温と同じ温度になる。クーの指が引き金を撫でる。床の上でタブレットのアラームが鳴る。

クーは銃を置いて、タブレットを取りに行く。キャンセルしないと設定したメッセージが一分後に送信されてしまう。文面は短い。愛想もない。〈ネルソン・J・ホアンはサン・チョウだ。ベイビーはブラックバーン知性化計画とのつながりがある。午前三時、ベイビーと会いに行った。座標は47.596408, -122.343622 。応援求む〉

考え直したクーは最後の一文に引っかかり、メッセージを削除する。タブレットをカウンターにセットすると、発信アイコンをタップする。うつろな目のハクスリーが数秒後に映る。クーは難聴の娘を探すが、別の部屋で寝ていることを思い出す。

「どうした?」ハクスリーが尋ねる。「調査が必要か?」

〈必要なのは〉とクーは手話して、少し間を取る。〈朝食〉

ハクスリーが眠そうに見つめる。「ドローンが配達してくれるんじゃないのか?」

〈こっちにきて食べよう〉クーが手話する。〈果物。パン。海苔チップスはなし〉

「お前の家でってことか? どこに住んでるのかもおれは知らないんだぞ、クー」ハクスリーがひげを撫でる。眉を寄せる。「わかった、いいよ。住所を送ってくれ」

言われたとおり送って、通話をさっと切る。拳銃をカウンターに置く――ハクスリーに頼んで署まで持ち帰ってもらおうと思う。ちゃんと手に馴染まないと言おう。クーは銃を端まで押しやって、まな板を置くスペースをつくる。

陽の光が部屋に差し込みはじめ、クーは果物を洗って切る。すっかり明るくなると、雑巾を手に部屋中をうろうろする。掃除ロボットの届かないところを探しまわる。


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カテゴリー: 翻訳

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