翻訳短編:ジョン・チュウ「確からし茶」

確からし
Probabilitea

ジョン・チュウ 作
川端冷泉 訳

確率変数を通して世界に干渉する能力を持つ女性、ケイティ。彼女は同じ力を持つ父親から、その力を無暗に振るうことを固く禁じられていた。そんな中、彼女は行きつけの喫茶店で、友人からある事件への介入を頼まれてしまう。彼女の決断は、そして事件の顛末は……

初出
Uncanny Issue Twenty-Eight, May/June 2019

著者紹介
ジョン・チュウ

日中は半導体技師として働く傍ら、Boston Review、Uncanny、Asimov’s Science、Clarkesworld、Tor.comなどに短編を寄稿している。また翻訳者として中国語の作品をClarkesworldなどで英語圏に紹介している他、ポッドキャ ストの読み上げも行っている。2014年に“The Water That Falls on You from Nowhere”でヒューゴー賞短編部門を受賞。性的、文化的マイノリティや親子関係を題材にした作品を得意としている。

作者ページ
http://www.johnchu.net/

本翻訳は作者の許可を得て掲載しています。


普通の父親は普通の人生を送る。仕事に行き、子どもを育て、華僑仲間との麻雀と飲み会のため週に一度誰かの家に集まる。娘に連絡したいときは奥ゆかしげに携帯を震わせるが、携帯がバックパックの奥深くに埋もれていたら、そのぶんぶん言う音にはとても気づいてもらえない。だがケイティの父親は〈秩序と混沌〉の物質界での化身だ。娘にメッセージに気づいてもらいたい時には、携帯はばらばらに分解して、バックパックを開けるころにはぴったり一〇〇個のダイアモンド型の破片になっているんじゃないかってくらいに振動する。それなのに携帯は全くもって無傷、なんてことは日常茶飯事だ。ケイティの父は、秩序と混沌を操作するという点においてあ らゆる方面で経験を積んで熟達している。

ケイティの携帯電話は今ちょうど震えはじめ、バックパックは跳ね回る巨大な豆のようになっている。それでもケイティは、それを無視して街を駆け降りる。今日はまだやらないといけないことが山ほどあるのに時間はなくて、『光ファイバー工学上級』の期末試験を早めに抜けて四時間浮かせたところだった。数理モデルに関する鬼 のように難しい試験が二コマ続けて六時間予定されていたけど、ケイティはそれを二時間で駆け抜けた。この試験は父親にこの何年か課されてきたどの課題よりも単純だったから、そっちの方に毎週勉強時間を食いつぶされていたにもかかわらず、ケイティは父の期待通りに無駄に高い点数を取るだろう。
父からの課題はどれも抽象的なパズルで、恣意的で、ケイティに言わせれば不公平で役立たずの一連の変換を使って、ある確率分布関数を別の分布へと操作する必要 がある。今回の締め切りは土曜日の夕飯までで、今日はもう金曜日なのにまだ最初の一問しか解けていなかった。運が良ければこの四時間で二問目をちょうど解ききれる だろう。その上、ケイティは指導教官から、日曜日までに『確率過程』の期末試験を数十人分採点するように言われていた。さて、ケイティはこれらを土曜日の午後までに終わらせなければならない。母が公演のために街に戻っていて、ケイティに土曜日の夜のチケットを送ってくれたのだ。土曜日に公演を見て日曜日は一日中母と過 ごすために、全てのタスクをそれまでに終わらせる必要があった。母が最後にこの街に来てからもう一年以上経つのだ。そんな状況で、メッセージを確認する時間がどこに残っているだろう?

ケイティの目下の急務は、『チャンス・オン・ティー』の特選紅茶で散財することだ。このティーハウスでは経営維持のためにコーヒーも提供しているため、他の誰もがここをカフェと呼んでいるのだが、とにかくこの紅茶がケイティのお気に入りだった。ほんの一瞬だけ、ケイティは世界が平和で、自分が全てのタスクを間に合わせられると思いたかった。

角を曲がるとティーハウスがすぐそこに見える。道の端には車がずらっと並んでいる。ケイティはナンバープレートを見て凍り付いた。頭文字をつなげて読むと、『DU5DTXT3Q』となっている。これはケイティの父流のやり方で、「メッセージ読んでねREAD MY TEXT THX」と告げているのだ。

信号のタイミングやブレーキパッドの摩擦を弄ることも簡単なことではないが、誰がどんな行動をとるのかを操ることは、誰にも、父にとってすら不可能のはずだ。にもかかわらず、この九台の車が、九人の人生に実質的な影響を与えることなく、父の望んだとおりに駐車している。ケイティは、〈生命と死〉の化身が最適な九人を選ぶのに手を貸したんじゃないかと訝しんだ。車を眺めながら、その仕事の途方もなさを噛みしめる。けた外れの大仕事だ――とんでもない数の偶発的事象を操作する必要があっただろう――こんな些細な結果のために!

ケイティは、自分の行動が父にこれほどまで把握されているという事実に衝撃を受けた。それに、こんな法外な手間をかけてまで読ませたいメッセージには、今すぐ目を通さないといけない。

ケイティはバックパックを下ろして通行人の流れの中で携帯を探る。ロックを解除すると、携帯の画面はまるで純真さを気取っているようで、ケイティには着信があったときにすぐに取らなかったことを馬鹿にされているようにしか思えなかった。もちろん携帯電話はただの黒くて薄い板以外の何物でもなくて、何か本当に馬鹿にしているような空気を放っているわけではないのだけれど。

父からの最新メッセージがグレーの通知窓に鎮座している。ケイティはそれに目を通すとため息をついた。九台の車を一列に並べるという妙技に比べて、その内容はあまりに普通過ぎる。

「もしあのティーハウスに行くのなら、ジャクソンから〈秩序と混沌〉の化身にしかできないような類の手助けをしてほしいと頼まれることになるだろう。手助けをする必要はないけれど、もし助けるのなら、二人ともが、化身とはどういうものなのかを学ぶことになる。それか、どこか別のカフェにでも行って僕からの宿題を終わらせることだ。どうするかは任せるけど、どちらを選んだとしても、ケイティが僕の娘だってことに変わりはないからね」

そのメッセージを見つめる。穴が開くほど画面を見つめれば何か秘密を吐かせられるんじゃないか、とでも言うかのように。十二歳の時、父が何をすべきかを全て言ってくれていたころのほうが、ある意味で人生は楽だった。最近では父は自分の期待を押し付けないよう全力を尽くしており、時にはそれに成功することもあった。けれども、理不尽に高い期待よりも悪いものがあるとすれば、それは理不尽に低い期待か、全く期待されないことのどちらかだ。

ばらばらになるほどに携帯電話を振動させるためには手に負えないほどの数式を即興で扱わないといけないため、ケイティはその考えを手放す。それに、携帯を買い直すような金銭的余裕もない。その代わり、ケイティは携帯をバックパックの中に押し込みながら、そもそもなぜ父がこのメッセージを送ってきたのかについて考えは じめる。ケイティは物心ついたころから訓練を受けてきたが、思い返してみると、課題の大半はうっかり何かの確率を変化させないようにするものだった。他人の人生に影響を与えるような操作を秩序と混沌に加えてはならない、と毎日のように言われてきた。それは化身の仕事とは真逆だと思えた。そう考えると、父からのメッセージは、ティーハウスに行くようにうながしているというよりは、入るなと警告しているように思えてくる。

『チャンス・オン・ティー』はもうケイティの目の前だ。店頭の巨大なガラスパネル越しに、黒いカフェテーブルと、角スツールに腰かけて紅茶と軽食を取っている人が見える。このブロックには喫茶店が八軒あって、うち一軒はタピオカティーが名物だ。向かいには同じようなガラスパネルのある店も建っている。ケイティがどこへ向かうのかは言うべくもない。もちろん、一番のお気に入りに。もし父から、今回ばかりは自分で秩序と混沌に意味のある操作を加えなさいと言われていたら、ケイティは逃げ出したくなっていただろう。

* * *

店のガラス窓を通り抜けた光芒の中で、塵埃がダンスを踊っている。飛び回る微細な粒子は完璧に決まった道を通るけれど、その動きを予測することはできない。ケイティは奥のテーブルに腰を据え、暇つぶしにそのカオス軌道を観察しながら、店の反対側を占領している、ポロシャツを着た男子社交クラブみたいな軍団をなんとかして意識から追いやろうとする。目の前には採点待ちの試験用紙と手を付けていない父からの課題が散乱している。今は、あの分別の足りない一団に加えて、父からのメッセージに気を取られていて、仕事どころではなかった。

ジャクソンが光を切り裂きながら歩いてくる。塵が身体の周りを舞って、あちこちに散らばってから正常なカオス状態に戻ってゆく。ケイティは一秒とかからずにジャクソンに気づいた。ケイティには〈生命と死〉の物質界での化身が、他の誰よりも、周りにいるどの人よりもピントがあっているように見える。グレーのスウェットと色褪せたブルーのジーンズが脇の黒いテーブルよりもはるかに深く見え、チップ入れに釣銭を投げ入れグラスを掴むその日焼けした腕は、それらをのせたカウンターのマホガニーよりも明るく鮮やかに映る。ジャクソンにもケイティが同じように見えているのかもしれないけれど、それはケイティにはわからない。ケイティが他の化身に会うようになったのは父からの指導を受けはじめてからがほとんどだったし、この話題を持ち出すのは変なことだと思っていたから。

それに、ジャクソンはあらゆる点で危険な〈生命と死〉の化身だ。二人は長年の付き合いなのだが、ジャクソンは昔は不相応に大きな身体をもてあます不器用な子どもだった。そんな記憶は、雪崩が歩いているかのような目前の光景に霞んでしまう。初対面の人は、巨大な岩山を目の前にした時のように、ジャクソンがのしかかってくるように感じずにはいられないだろう。

ジャクソンはケイティを見つけると顔をほころばせた。育ちすぎた子犬のようなその振る舞いがさらに情熱的になる。眉を上げて両腕を大きく広げたジャクソンに向け、ケイティは軽くうなずいて手を振る。

「やあ、ケイティ」ジャクソンはそう言うと、手にアイスティーを持ったままぬっと迫ってくる。「君もここに来てるなんて思いもしなかったよ」

「ハイ、ジャクソン」ケイティはジャクソンのために、紙の山とティーポットを脇にやる。「やっと期末が終わったから、遅れを取り戻したくて。パパからの課題が明日までなの」

「君の父さんが宿題を?」引きつった顔に、上がった口角。「何のために?」

「わかってくれると思うけど、私にもわからないわ」眉が上がるのが自分でもわかる。「物心ついたころからずっと、パパは馬鹿らしくなるくらい複雑な数学の問題を出してくるの」

ジャクソンが手近なテーブルを見渡して、椅子を引っ張ってくる。腰かけたその表情は露骨に不自然で、額には深いしわが刻まれ、口はすぼめられている。

「なんで君はいつもそんな顔で見てくるんだい?」

「そんなって?」ケイティが紅茶を啜る。

「まるで俺が歩く災害かって顔」ジャクソンはアイスティーにストローを突っ込む。

「間違ってる?」そんな表情をしたつもりはなかったが、ケイティはジャクソンをからかいたくなってしまった。

「住んでるブロックのペットをみんな殺しちゃったことがあったでしょ。うっかり」

「第一に、俺はそのとき十二歳で、もう十年も前のことだ。その時からもうだいぶ上達した。第二に、君は覚えてないかもしれないけど、俺はすぐにみんなを生き返らせた。ペット自身をのぞいたら、一人としてそのことに気づいた人はいなかっただろう」ジャクソンは真面目な顔をしようとしていたが、にやけ笑いがその邪魔をして いる。「それに、十歳の時に意図せず三卓分の麻雀牌を積み込んだ誰かさんには言われたくないね」

もしかすると、父の訓練がうっかり確率を弄らないようにする方向ばかりなのはそのせいかもしれなかった。どうあれ、ジャクソンと同じく、それ以降ケイティがしくじったことは一度もない。

「かもね」

「ところで、君はあそこにいる男を見たかい?」ジャクソンは、頭を傾けて騒がしい集団の方に目線をやる。件の人物は、ワイシャツとサスペンダーとベストが憎らしいほどに似合う小柄な痩せぎすの男で、びしっと整えた髪にフチの細い眼鏡をかけるさまは、まるで一九二〇 年代のギャングスターとバーバーショップ音楽のテノールのあいの子のようだ。彼をジャクソンの好みのタイプにするなら、スケート靴を履かせて氷上を躍らせるしかないだろう。それなのに、ジャクソンはわざわざケイティを挟むような位置に座っていた。

社交クラブ風の一団はその男を取り囲むように群れており、発言一つひとつに同意するようテーブルを叩く時も、その目は常に男から離れないようだった。白いポロシャツとカーキのスラックスに身を包んだその姿はまるで、中流デパートを信奉するカルトの下っ端だ。腕っぷしでジャクソンに勝てる奴は居そうにもないし、ジャク ソンが急に男たちの椅子を引いたとしたら、たとえ気づいていても誰も抵抗できるはずがなかった。あの男が文字通り目の前にいる限り、この集団がジャクソンの話しかけてくる理由にはなりえない。

「彼との素敵な出会いを演出してほしいってわけ?」

ジャクソンは思わず口が半開きになり、眉間には深い皺が寄る。頬には朱が差し、手には力が入りすぎてグラスにヒビが入り始める。ケイティの脳裏にいくつかの思いがよぎる。『いかにもジャクソンって感じの怒り方ね』『いつもの冗談じゃない。何がそんなに気に触ったのかしら』グラスを握り割ること自体は驚くようなことではなかった。

「ごめんなさい」ケイティは余計な考えをテーブルの脇に追いやる。「そんなに気分を害するなんて思わなくて。もう言わないわ」

怒りの噴火は来た時と同じくらいすぐに去ったようだった。口がゆっくりと閉じ、視線は鋭くなる。グラスはヒビだらけで、そこら中からアイスティーが垂れている。ジャクソンはしばらく濡れた手を見つめてから、その手をジーンズで拭った。ケイティは、アイスティーのブラウン運動に干渉しようか迷って数秒を無駄にした。アイスティーがこぼれないようにするためにどれくらい集中し続ける必要があるか知りようもない。それに、父はその改変に気づくだろう。

「なあ、俺はまだ道を踏み外しちゃいない。勘弁してくれ。君と協力できるかすらまだわからないが、不愉快なんだ。あいつの身体が俺のタイプだってのは」ジャクソンは口を引き結び、指をケイティに突きつける。「奴が誰かわからないのか? どうして君は……いや、思うにあいつの悪名もまだ広まりきってないのかもな。気にするな。今教えてやる。いや、二人で盗み聞きするほうがいいな」

「二人で?」ケイティは眉をひそめる。「つまり、私はできるけど……」

「君は〈秩序と混沌〉の化身だろ?」ジャクソンは紙ナプキンを何枚か取って、こぼれたアイスティーに浸す。「母さんが前に似たようなことを頼んでたような気がしたんだが。君はただ――」

「空気中の分子の相互作用を操って音をここまで反響させる? パパならきっとできるでしょうね」ケイティはその期待するような目つきに根負けした。「いいわ。できるだけやってみる」

ケイティは心のどこかで、父がこのお遊びに気づいて紅茶を非難がましく泡立たせることを期待していたが、紅茶に変わった様子は見られなかった。しばらく弄っていると、余計な会話の音が徐々に小さくなっていく。浮かび上がってくるのは微かでとぎれとぎれな声だ。そもそもこの作業がなければ、もっと聞き取りやすかっただろうに。

「かなり聞き取りづらいな」ジャクソンは嫌味たらしく目を細める。そんなことしても聞こえやすくなるはずも

ないのに。「もっときれいにできたりしないか?」 「うるさいわね」
平面。平面だらけの喫茶店。ケイティには、空中で散乱した音がどうやってこちらに反射してくるのかわかる。 適切な平面を選んで散乱を打ち消すちょうどいい変換を加えてやれば、多少のエネルギー喪失をのぞけば、あの男の言葉はそのまま目の前まで届くだろう。ノイズを増やさずにこれ以上音量を上げるのは不可能だ。それはま た次の機会があれば試すとしよう。

ケイティは、空気中に現れた変化が自分のものだけだったことにどこか驚いていた。例えば、ケイティの仕事に父が気づいていないように見えるとすれば。その発想に心を揺さぶられる。父があまりに巧妙に監視しているせいで、見られていることに気づいていないだけかもしれない。ケイティは、自分が今上手くこなせているか、そもそもこれをやるべきだったのかどうか不安になってきていた。

件の男の言葉はまだ微かにしか聞こえなかったが、そちらに意識を向けることはできる。

「ワオ」ジャクソンの目が見開かれる。「こいつはすごい。もう大声じゃ喋れないな」

男が話している内容は、自分たちがいかにかけがえのない人間か、白人の土地をどうやったら取り返せるか、それに――

続く言葉に息を詰まらせる。ケイティはようやくその男が誰なのか気づいた。各地の大学のキャンパスで演説をしては追い出され、言論の自由が侵害されたと悪意を持って騒ぎ立てている男だ。ケイティの身体が怒りに震え、意識の外で男の言葉が再び周りの会話にかき消される。父の特訓に感謝するのはこれが初めてだった。怒りに我を忘れそうになっても、物事をあるべき姿に戻す以外のことをせずに済む。十二歳のころの自分だったら、店のガラスパネルを粉々に粉砕するくらいのことはしていただろう。

「ケイティ」ジャクソンの眉間の皺が、かつてないほどの苛立ちを伝えてくる。「君が助けを求められたら、そこには度し難い人物がいるからだと思え。あの男が救いようのないクズだからって、それは逃げ出していい理由にはならないんだ」

「わかった、わかったわ」手のひらを上に向け、ため息をつく。

「もう一回やらせてちょうだい」

会話の雲が二手に分かれ、男が計画へと話を進めている声が正面に聞こえてくる。ここを出て、今まさに年寄りたちによる演説反対の集会が行われている下町へと向かうらしい。このボス猿たちの一団は間違いなく、集会の参加者が二度と抗議などできないようにしてしまうだろう。

空気を支配する力がゆるみ、会話の雲が男の言葉をかき消す。怒りが内臓を万力のように締め付け、紅茶を啜ると、脳裏には男をどういう目に遭わせたいかが次々に浮かんでくる。だがケイティがそれらを行動に移すことはない。男がどれほどそうするにふさわしい人間だったとしてもだ。誰かに干渉することは無辜の他人の人生を崩壊させかねない、という父から何十億回も聞かされた警告は、ケイティの中にあまりに深く根付いていた。叫び声にならないように、無理やり声を抑え込む。「ジャクソン、あいつらを止めないと。怪我したり、下手したら死ぬ人が出るわ」テーブルに手をかけて身を乗り出す。「その気になったら、あんたならあんな奴いつでもブチのめせるでしょ?」

「君がそんなこと言うなんてな」ジャクソンがアイスティーでびしょびしょになったグラスを脇に避ける。「そんな単純な話じゃないんだ。何を為すべきかをしっかり考えないといけない」

〈生命と死〉の化身は人間の身体を持つ。息をし、血を流し、汗をかき、痛みを感じる。自分たちの事についてジャクソンはそう語ってくれたが、ケイティは未だに彼らが本当に隅から隅まで人間なのか疑っていた。寿命もまた普通の人間と同じくらいだが、その時は本人が望むまで決してやってこない。ケイティが十二歳の時、その 時何が起こるのかを父が見せてくれようとしたことがあった。ある土曜日の中国語の授業の帰り道だった。一瞬、文明社会の構造が二人を包み込んでカラフルなリボンがねじれ渦を巻いたかとおもうと、それは消え去り全てが正常に戻った。ケイティはそれが何を意味するかただただ理解できなかったし、父自身も何も説明してくれなかった。家に向かうケイティに残されたのは、父は摩擦係数だけでなく天気も操れるんだ、という確信だけだった。

それからもう十年経ったが、腹立たしいことに、あの日どうやって雨を降らせたのか父は未だに教えてくれない。ランダムなものがランダムで有り続けようとする力を屈服させるのには大変な時間がかかる。当時のケイティにとって、天気を操ることは、文明社会の構造よりも興味をそそられるものだった。今でもそうだ。それなのに、ケイティは自分が今から、前者について何も学ばないまま、後者について多くの事を知ることになるんじゃないかと予感していた。

ケイティと同じく、ジャクソンは真の化身というより、化身訓練生といったところだ。それでも、ジャクソンが両手を広げると、その間には半透明に光る細いリボンの塊が現れる。サイズから察するに、それは実際の現実世界の構造ではなく、そのモデルから一部を切り抜いたもののようだった。リボンがテーブルの上で互いに絡み合っている。右手のそばにある結び目は引き絞られて明るい点のようにしか見えなくなり、巻き込まれたリボンが今にも引き裂かれそうになっている。ケイティにも、それが良くないことだとわかった。

「今見た通り、放っておいたらあいつは社会の片隅を台無しにするだろう。俺なら奴を今ここで一撃でぶちのめすこともできる」ジャクソンはことなげにそう言う。「そうしたら何が起こるか見てみろ」

結び目が消える。それ自体は良いことのはずだった。解けて自由になったリボンは鞭打ち、まだ締め付けられている他のリボンを連鎖的に巻き込んでいく。少なくともケイティには、これが良くないことに思えた。『言いたいことがわかったみたいだな』とでも言いたげなジャクソンの顔がそれを確信に変える。

「で、あなたがここにいる意味は?」ケイティはテーブルの紙束を整頓し始める。「まさか何もできないって言うつもり?」

「おいおい、そんなこと言ってないだろ」ジャクソンは降参するかのように両手を上に向け、リボンの塊がテーブルに落ちてかき消える。「とにかく、俺たちはこれに関して何か手を打たなきゃならない。さもないと、自分がしたことの重大さを奴に一生後悔させなきゃ俺の気が済まなくなる。これは俺の母さんがここ最近続けてきた仕事の最後の締めくくりなんだ。もし全ての状況が完璧なら、事はこう進む」

ジャクソンが両手を広げると、リボンの塊が結び目も含めて再び現れる。指をくねらせるとリボンが結び目へと殺到し、互い違いにぐるぐる回転するその塊のパターンはより複雑になってゆく。虚ろだった色彩の瞬きが形を得る。リボンは四散し、結び目は消え去った。ジャクソンの顔に嬉しい驚きが浮かんだと思うと、次の瞬間には満足げになり、瞬く間に移り変わるその表情は最終的にほっとした顔で落ち着いた。結び目に捉えられていたリボンはひらひらと飛び去っていく。ジャクソンは、解放されたリボンがモデルの残りの部分へと編みこまれ、より複雑なパターンを生み出すのを目で追う。「それで、完璧な状況が整ったとして、それをどうやって知るつもりなの?」ケイティは試験の解答用紙をまとめ終え、父からの課題の整理にとりかかった。「その時まであいつを尾行でもするつもり?」

「君も、どうして自分がここにいるのかわかってるんだろ?」ジャクソンが不審の目でにらみつけてくる。「君ならあらゆる状況を好きに生み出せる」

「ええと、どんな状況でも、ってわけじゃないし、それにパパが ――」紙束を持つ手に力が入る。「えっと……」父の「化身とはどういうものなのかを学ぶことになる」という言葉はこれの事だった。もしジャクソンが望むことをしたら、ケイティは男の人生の変化について責任を負うことになる。影響を受けることになる数多の市民については言うまでもない。確かに、ケイティがジャクソンにあの男を殺したらと言ってから何分も経っていない。だけど、この二つは別のことだと思えてしまう。本当は同じことだとわかっているのに。蒸し暑い日の汗のように、羞恥心がケイティにまとわりつく。

「で、君がここにいる意味は?」ジャクソンが先ほどの言葉をそっくりそのまま返すが、その顔は笑っていない。「これは、〈秩序と混沌〉の娘と〈生命と死〉の息子が共犯になって、文明って名の機械のちっぽけな部品を直すってことだ。どうやったら俺たちが望む状況を作り出せるかわかるか?」

ジャクソンはそのモデルをループ再生している。数秒おきに結び目が現れてはほどける。ケイティは、静電気で引っ付いたり離れたりしているかのようなそのリボンの動きをつぶさに観察した。数回の再生で、ジャクソンがどういう状況に落ち着けたいと考えているかを脳裏に焼き付ける。どうやったらそこにたどり着かせることができるかわかる。理論上は。都合よく雷雨になったり、あの男と取り巻きが突然スケートリンクに再集合してくれたら事は簡単に済むのだけど。

「あなたが私に頼んでいるのは、つまり、一つの確率分布を操作するために、恣意的で、率直に言って不公平で役立たずの変換を ――」ケイティの視線が父からの最初の問題に落ち、興奮が電気ショックのように身体を震わせる。「ああ、その通りだ」

ケイティは何年も解き続けた課題の意味をようやく理解した。父は物心ついた頃から秩序と混沌を操作する様々な方法を訓練する一方で、現実世界を操作することで他人に物理的に干渉してはならないと固く諭してきた。と同時に、父はあり得ないほど難しい数学の問題も出し続けた。この二つのおかげで、ケイティは現実世界の状況を操作して別のかたちに変えることができる。これについて父から教わったことがないにも関わらずだ。特に、明日までと言われていた課題の一問目の解法は、ジャクソンに頼まれた状況をそのまま作り出すことができる。ケイティはジャクソンが望むことを出来るだけでなく、どうすればそれが出来るかもわかっている。少なくとも、理論上は。この問題を正しく解けていれば、だけど。

「早く決断してくれ、ケイティ」ケイティに睨まれてジャクソンは少ししおれる。「もう店を出ようとしてる。あいつらが本当に集会で事に及んだら、俺らのどちらかが命を救える未来なんて存在しないんだ」

「あの中に踏み込んでいって、あのくそ野郎をぶちのめしたり出来ないの?」

「そりゃ出来るが、それは何の助けにもならない」ジャクソンが右腕を叩く。「自慢じゃないが、俺の腕はあいつの脚の太さとほとんど変わらない。俺があいつらを全員ボコっても、あいつらの筋肉信奉とレイシズム中毒を必ずしも解毒できるわけじゃないんだ」

男とその取り巻きが、椅子を騒がしく引いて店から出ていこうとしている。ケイティはその見せびらかすような仰々しい歩き方にまったく注意を払っていなかった。ティーカップを見つめ、父から肯定か否定のサインが示されることを願う。現状への助け船ならなおありがたい。けれど、紅茶の動きは頑なにカオスなままで、何の影響も受けていなかった。反対に、さわがしい一団の動きはこれ見よがしに不快で無視することなどできない。ジャクソンは目をぎょろりと動かしたが、男たちに大した注意を払う者は他にはいない。せいぜいちらりと顔を上げて、すぐに会話とか、電話とか、パソコンへと注意を戻す程度が関の山だ。

店から出る途中に、男がチップ入れに手を伸ばして、釣銭を一握りポケットに詰め込む。このささやかな、無意識のさりげない「特権行為」が、男の人生のパターンにぴたっとはまり込んだ。この気づきがケイティの精神を研ぎ澄ませ、気持ちが落ち着き、何をすればいいかがわかる。少なくとも今この瞬間は、父が賛成するかどうか気にもかけていなかった。明日は全く別の話だ。父の反応に打ちのめされる可能性は大いにあるが、それには後で対処できる。

「わかったわ、ジャクソン。私に何ができるか試してみる」

ケイティの意識が、地下鉄の駅に降りる男たちに追従する。ジャクソンはゆっくりとこぼれるアイスティーのグラスの傍の空間を眺めている、というよりはむしろ、あの集団によって文明社会の構造が歪ませられるところを見ていた。リボンがケイティの視界の端に映る。その構造がケイティには見えないところを少し補完してくれる。父なら一人で全てを把握できるだろうし、それをもっと長い間続けることもできただろう。

駅のホームにはすでにまばらな人影があった。いたって平均的な集団だ。ケイティと同じくらいの年頃でバックパックを背負っている、見るからに大学生らしい人たち。ベンチに座っているよう北京語で子どもに言い聞かせる親と、その隣で手を握りあう二人。天井から吊るされた電光掲示板には、次の電車が一分以内に到着すると 表示されている。

一団が階段をドスンドスンと降りてくる。横幅いっぱいに広がって、たまたまそこに居合わせた人を押しのけながら。男が乗車券をかざすと改札口が開く。男が通り過ぎ、改札が閉まり、それ以降他の人がいくら自分の乗車券をかざそうと再び開くことはない。どの改札もだ。小さなディスプレイにはもう一度お試しいただくか、駅員をおよび下さいとしか表示されない。ケイティがいじくるのをやめればまた正常に動作するのだけど、ジャクソンがあの男から取り巻きを引き離したがっていて、それなら改札口がそこにあるというわけだった。

誤作動に気づいた人はいない。あの男は殊更に。ホームに差し掛かった時、男は自分より弱い者がいることに気づく。ホームにいた人たちもそのことに気づいて、先ほどの親は子どもたちを自分の方に引き寄せた。男は親子に顔を近づけ、嘲笑ってばかにする言葉を投げかける。ケイティは男の中傷と死の恐怖が空気を切り裂くのを、子どもの泣き声に心が砕けそうになるのを感じる。ケイティは喫茶店に座っているから、ありきたりな婉曲語と陳腐なスラングによる脅し文句にうんざりすることができる。けれども、男がそういった語彙に長けている必要はない。独りよがりのヘイトと、相手が自分の手の内にあるんだとでも言いたげな威圧と、誰も男を止められないという確証が、十分にその役を果たしていた。服のスリットをじろじろ見てくる白人の男の子達に詰め寄られて、顔を真っ赤にした少年にもと居た場所に帰れと叫ばれた記憶が、ティーハウスと駅のホームの距離を崩壊させる。胃がねじれる。もし男に泣かされていたら、思わず悪態が口をついていただろう。ジャクソンの前の半透明のリボンがホームにいる人たちと同じように緊張して張りつめる。ホームでは数人が男の方を向いたものの、言葉を発するものはいない。残りはただ自分が標的でない攻撃を無視するだけだった。

「ジャクソン、なにかしてあげられないの?」ケイティが今にも消え入りそうな声で言う。

「ああ、世界をもっと良い場所にすること以外に、出来ることはない。まだ十二秒程度しか経っちゃいない。チャンスを待つんだ」肩をすくめる。「世の中には、状況を整えた上で、人が正しい行動をとるよう願う以外に何もできない事があるんだ」

「願う? 私たちにできることが、それだけ? 私がパーソナルスペースの概念と反省の念を持ち合わせていないファシストをたくさんの人と一緒に閉じ込めてるっていうのに、その根拠は誰かが正しいことをしてくれるっていうあなたの願い﹅﹅だけなの?」

「このシナリオをこの登場人物で何度も再生して、パーセントの確率だったら、あとは願うだけで十分だ。これが俺にできる最善なんだ」

「パーセントね」ケイティは声ににじむ嫌悪を隠そうともしない。
「おいおい、 パーセントで起きる事はいつも起きるんだぜ。それが パーセントってことだ。何を言いたいかわかるだろ?」ジャクソンは、ケイティの目に涙が溜まっているのを見て眉をひそめ、声は悲しげになる。「君が何をしているにせよ、それを続けるんだ。誰か通りかかるぞ」

暗闇に浮かぶ点のような列車のヘッドライトがどんどん近づいてくる。そのとどろきが男の声をかき消すが、男の叫び声はただ大きくなるだけで、男が端から順にそこにいる人を威圧するにつれ、声が響く空間はどんどん広くなっていく。

ホームにいる人は、ただ一人を除いて、みなまともな人だ。そしてそんな十数人は、行動を起こすただ一人の誰かを必要としている。
頭上のスピーカーが列車の到着を告げる。男と体格のそう変わらない人が男に向かって歩き始めた。バックパックを下ろし、腕を組んで男の前に立ちはだかって、脅しの言葉をものともせずに男に言葉を投げ返す。男はよろよろと後ずさり、助けを求めて周りを見渡す。集会を前にして見当はずれのジャブを繰り出すのに夢中になっ ていたせいで、男は手下がホームにいないことにようやく気づいたようだった。男の傍には誰もいなかった。

ケイティの注意が一瞬それた隙に、改札がようやく動作し始め、取り巻きが一人ずつ流れ出す。ケイティは思わず顔をしかめた。これが等式になってまとめて紙束に書かれていたらもっとずっと簡単だったのに。

拳が男に当たり、男が後ろ向きに床に倒れる。ケイティが何かしてこれを生じさせたわけではなかった。完全に二人だけの問題だ。ケイティがした唯一の干渉は、男がホームから落ちないようにすることだけ。ケイティとしては男が列車に轢かれてほしいと大いに思っていたけど、それはジャクソンに求められた干渉の枠を越えている。それに、これは想像にすぎなかったが、もしあの男が落ちたら技術の拙さを父に叱られるかもしれない。取り巻きが数人、男のことを一瞬見つめてから、解散して散り散りになる。まるで面識の全くない、ただ偶然同じポロシャツとカーキのスラックスを着ていただけの男たちだったかのように。大半が到着した列車に乗る事すらしない。彼らにとってそのパンチは、熟練の化身達により作られた棺桶に最後の釘が打ち込まれたようなものだった。ケイティにはそれが、ジャクソンの未だにこぼれ続けるアイスティー越しに、リボンがはためいてほどけていく様子でわかった。

「これでいい?」腹立たしいことに、涙をこらえているような声のまま戻ってくれない。ケイティは頭を振って、紅茶を一気に啜った。

「ああ。集会で暴力が起こることはないだろう。君が気づいていたかは知らないが、携帯で動画を撮っている人もいた。そういう人が来るようにしておいたんだ。この動画はウイルスみたいに拡散されて、もしあいつが誰かの記憶に残ったとしても、それはレイシストで女嫌いのクソ野郎だから殴られた男としてだけだろう」

ケイティの紅茶が泡立ち始める。ジャクソンの視線がティーカップに移って、困惑した目でそれを見つめる。ケイティはただため息をついた。

「こいつは一体全体なんなんだ?」万が一話が通じていなかった時のために、ジャクソンがティーカップを指さす。

「ああ、パパからよ」背もたれによりかかる。「どうも、ずっと私たちを見てたみたいね」

「それっていいことなのか?」

「さあね」ケイティは肩をすくめる。「もしそうなら、幸せそうに泡立って見えたはずよ」

***

土曜日に家に帰るやいなや、ケイティは天国の香りに襲われた。牛肉と八角の匂い。反射的に口内が潤う。父の贅沢ビーフストックだ。作るのに丸一日かかり、肉屋で特注した六種の部位の牛肉を相当な量消費する。ケイティの胃が鳴り、同時に心が沈む。父が一生懸命料理をするのは、決まって何か重要な話がある時だった。重要な話題であればあるほど家を包む匂いは豪華になる。玄関の扉を閉めて靴を脱ぐ前によだれがあふれたのは、九歳の時、父と母が別居すると告げられて以来だった。今週の麻雀は今日ここで開催されるはずだったから、この手間はうちに来る仲間たちのためなのかもしれない。けどケイティは、まさかそんなことはないだろうと思う。それに、もう全員ここに着いているいるはずの時間なのに、家の前の道に車は見えないし、家の中もおしゃべりと牌を混ぜる音で溢れかえってはいなかった。

ケイティは玄関の扉を閉めて靴を脱ぎ、深呼吸して力いっぱいバックパックを握りしめ、自分の運命と向き合うためにキッチンへと向かう。それがどんなものになるのか見当もつかない。昨日の紅茶の泡立ちは何も語ってくれなかった。

生活リズムの関係で、ケイティと父が同時に起きて家にいる時間は、最近ではもう土曜日の午後くらいになっていた。ケイティは少し遅く帰ることにしていたから、その時間にはもう麻雀が始まっている。そうやって、ケイティはバッグにしまった課題を父にただ手渡し、父はおしゃべりに精を出すという具合だった。

あいにく、父は一人でキッチンに立っていた。寸胴鍋が二つストーブにかけられていて、片方には麺が、もう片方にはビーフストックが入っている。二つの大きな端の欠けた椀にはそれぞれ牛肉と酸菜が入っていて、ケイティより長く家にいる若干歪んだプラスティックのテーブルに鎮座している。

「みんな遅れててね」父が牛肉と麺を椀に注いで、スープを掬ってくれる。「渋滞にでもにつかまってるのかな」「まあ」目を合わせずに話すのは失礼な行為だ。「なんて偶然なのかしら」

「おいおい頼むよ。この遅延で誰かの人生が有意に変わる事はないんだ」父が椀に酸菜をよそって、テーブルに置く。「来なさい。お腹もすいているだろう」

棚から箸とスプーンを掴み取る。父が自分の椀を用意している間に、ケイティはバックパックを置いて席に座り、椀に箸を入れた。
味は最高だった。あいにくなことに。深みのある少し塩辛いスープに切り込む酸菜の酸味。牛肉は芸術的な柔らかさで、ありえないほどの風味がある。太い丸麺が最高のキャンバスになり、全ての味わいを完全に調和させている。今まで食べた中で最高の食事だ。これから話す事が何であれ、真剣な話になることは間違いない。

「ジャクソンを助けないほうが良かった?」ケイティが、自信なさげに父を見上げる。

「どうしてそんなことを聞くんだい? 細かな点になら難癖をつけられるけど、それは経験とともに身につくものだ」父がケイティの隣に牛肉麺の椀を持って腰かける。「さあ、味見は終わったんだから、次にしないといけないのは、人助けが自分のやりたい事なのかどうか決断することだ。これからは、〈生命と死〉の化身に手助けを求められるようになるんだ。彼らを助けることがいつも今回と同じくらい単純だとは限らないし、助けるってことはつまり彼らと共犯関係になるってことなんだから」「ねえ、ジャクソンと私はたくさんの命を救ったのよ。そのために私たちがしたことは、ファシストに恥をかかせただけなの」

父が眉をひそめる。麺を一本すすり、よく噛んで飲み込んでから口を開いた。

「いつも今回みたいに丸くおさまってくれるわけじゃない。時に僕たちは人を殺すし、もう覚えてないのかもしれないけど、ジャクソンが止めるまで自分でもそうしたいと考えていただろう。ともかく、母さんは人の命を操作する人間と一緒に生きることができなかったんだ。本当に筋の通った考えだ。僕は結婚するよりもっと前に、化身について、僕たちが何をしてるのかについて、母さんにちゃんと知らせておくべきだった」父は椀に箸を置いている。「母さんが行ってしまう前に、うっかり確率を弄ってしまわないように娘をしっかり訓練すると、僕は約束したんだ。もちろん二度と確率を意図的に弄らないと誓うなら、母さんとの今の関係を続けることもできる。どんな選択をするにせよ、今週末に会ったときに母さんにそれを伝えるんだ」

ケイティは自分も箸を置いて、父の言葉が身に染みわたるのを待つ。母親が居なくなった理由について、九歳の娘にする説明と二十二歳の娘にする説明が異なるのは道理なことだ、と思う。母は演劇の公演の為に家の近くまで来ることもある。ケイティはようやく、どうして母が家に立ち寄ることも、父が舞台を観に行くことも無かったのかを理解した。この街に来るとき、母がチケットを二枚以上贈ってくれることは無いし、会いに行くのはいつもケイティで、その役割が入れ替わることはない。けれど、この発見も、ケイティが決断をしないといけないということを正当化してはくれない。これが両親のためでなければ、ケイティはただ自分がしたい事をすればよかった。最低でも、二人がケイティに何を望むか、意見を統一させてくれただろう。偶然か否か、母は今ビバリーヒルズの円形劇場にいてデジレ役での公演をちょうど終えるところだ。ケイティが母と再会する前に、ケイティが母に自分の決断を伝える前に、知っておきたい事がある。

「ママのトニー賞に何か関与した?」顔を上げてそう聞く。「変だと思ってたの。もともとの主演女優が奇妙にもこの街で公演の準備をしてる時にステージの街灯に脚を引っかけて骨折して、ママがその役を引き継ぐよりほかに方法がなくて、そうやってスイート・チャリティーの再上演に出ることになって激賞されるなんて」

「してないに決まってるだろ! もしやるならもっと疑いようのない流れにするさ。母さんには計り知れない才能があるし、奇妙な事故は起こるものだ。化身がそんな仕事をするとしたら、その化身は単に未熟か、計り知れない不注意者だな」父はケイティの視線を無理やり合わさせる。「僕は母さんの人生に一度も干渉したことがない
し、ケイティ、お前﹅﹅もこれからそうするんだ。母さんと連絡を取るのもだめだって言っているんじゃない。母さんがそれを望み続けるのならな。だけど、干渉は﹅ ﹅ ﹅絶対に﹅ ﹅ ﹅しない﹅ ﹅ ﹅。わかったか?」

「うん」ケイティはまた目をそらしたくなったが、たった今決心を固めたらしく、代わりにバックパックから課題を取り出してテーブルに置いた。「この課題は解けたわ。今日からの課題はもっと難しくなるんでしょ……」

「ああ、人生というのはやっかいなものだ。あそこに若者の集団を立ち会わせるためには、高度な操作をしばらく続けないといけなかった。そもそもあそこであのファシストに恥をかかせたことで彼らが幻滅してくれていればいいんだが。いずれは、こういう長期的な改変を自分の手で扱わないといけなくなるんだよ。それから、どんどん経験を積んでもっと巧妙な解決策を見つけられるようにもならないと」

父が分厚い紙束を取り出して、今解いた課題の隣に置く。この紙束がずっと父の隣の椅子に鎮座していたことにケイティが気づくまで数秒を要した。父は見事な手品を幾つか披露できるけど、その中にどこからともなく物を取り出すというのは入っていない。次の課題はその紙束だった。最初の問題は乱気流の数学についてのもので、ケイティにはそれが大気循環のアナロジーだとわかる。天候操作。ケイティの目が、課題の山と父との間を何度も往復する。

「私がこの決断をするってわかってたの?」ケイティの心には、どこかそれに驚いていない自分がいた。「いいや。強いて言うなら、僕はどこか別の喫茶店に行ってくれないかと心の片隅で願っていた。そうなれば、決断を聞くのを先延ばしにできると思ってね」俯いて、ため息をついてからもう一度ケイティと目を合わせる。「人 生はやっかいだ」

湯気が巻きひげのように牛肉麺の椀から立ち昇り、ケイティはそれをひねって文字をしたためる。その場に唐詩が浮かび上がり、天井に当たって四散した。ケイティがこんな風に湯気で遊ぶのは初めてのことではなく、いつもの通り、父からは非難の目を向けられる。でも今日は、その顔はやがてほころび、あきらめたような笑顔に変わった。


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カテゴリー: 翻訳

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