翻訳短編:テンダイ・フチュ「ンジュズ」

ンジュズ
Njuzu

テンダイ・フチュ 作
内藤惇 訳

テラフォーミングが進んでも、古くからの風習が失われるには至ってい ない近未来。語り手は小惑星ケレスに滞在中、水難事故で息子を失う。そこで彼女を待っていたのは、核融合プラントの貯水池に住むという水 魔「ンジュズ」を鎮めるための儀式だった――鮮烈なアフリカSF。

初出
AfroSF, volume 3 (StoryTimes, 2018)

著者紹介
テンダイ・フチュ

ジンバブエ生まれ。スコットランド在住。本作のようなSF/Fから移民 文学まで作風は幅広い。変容しつつあるジンバブエ社会を描いた第一長編 The Hairdresser of Harareは高い評価を受け、4ヶ国語に翻訳されている。 “Intervention”(2013)でCaine Prizeにノミネート。本作はアフリカのSF小説 に贈られる賞である2019年度Nommo Awardにノミネートされている。

作者ページ
http://www.tendaihuchu.com/
Twitter: @TendaiHuchu

本翻訳は作者の許可を得て掲載しています。


水はどこでも同じに見える。違うのは背景と明かり、純度だけだ。私はビムハの池の銀白色で波一つない水面を覗き込んでいた。池は深く、下には底知れない暗闇が広がっている。ここの昼間はカラハリ砂漠の夜明け前に似ている。水の蒸発を防ぐ加圧ジオデシック・ドームの透明な外壁を通じて、光が差し込んでいる。

「ここだ」雑音の多いオープンチャンネルで、ヴァムタサが私に言う。

ドームの中の大気は呼吸に適さないから、ヘルメットを外すことはできない。私は池にもう一歩近づく。

「気を付けな」タリサイが囁く。

小さな足跡が私の横に残っていた。私たちが辿ってきたそれは、私たちが足を止めたあとも続いている。愚かしく、恐れを知らずに。

「ここに違いない」自分に言い聞かせるように、ヴァムタサがもう一度言う。

ブーツの下に感じられる茶色い土壌は凍っていて固かった。私は一挙一動をゆっくりと注意深く行う。一キロか二キロ先、池の向こう側あたりに放出パイプから上がる水煙が見えた。一億リットルにも上る水が、ナリラ核融合プラントを循環している。高温まで熱された蒸気は地面に蓄えられ、冷却され、液化し、断熱パイプでプラントへと戻っていく。

目を閉じて深呼吸し、胃の中のものを戻しそうになるのをこらえた。金属製のバンドに締め付けられているせいで胸が苦しい。息苦しさのあまりヘルメットを外しそうになったところで、夫が私の手を掴む。

「自分がどこに居るのか考えろ」タリサイが言う。「駄目だって言っただろ」

彼女の声色は非難がましく、爆発しそうな怒りが見え隠れしていた。だがオープンチャンネルでは皆が聞き耳を立てているので、言い合いは後にとっておく。口喧嘩はどんな結婚生活にもつきものの些細なほころびやがらくたと一緒に、カーペットの下に掃き込んでしまうことにする。

私は行儀よくしていなければならない。ムルーラ、一族の息子の嫁は、一人の人間とだけ結婚しているのではないのだ。血族の契りは娘を一族の全員に結び付ける。生者にも死者にも、等しく。
「いいか、どんなことがあっても、絶対に泣くんじゃない」ヴァムタサが言う。「さもないと、ンジュズはあの子を返してくれないだろう」

「息子はたった今溺れたのよ。想像上の生き物の話をしてる場合なの?」私は怒鳴り声を上げるが、言われた通り涙はこらえる。迷信だと分かってはいても、何か引っかかるものがあった。賭け金が積み上がった状態では、用心するに越したことはない。

「二十年前、チュスンバンジという技術者が池に落ちた。奴は三日間も見つからなかった。そして帰ってきたときには、小惑星帯ベルトで並ぶものがない呪医ンナンガになってた。奴はンジュズに会ったのさ。ンジュズは居るんだ」

誰かは分からない女の声が言う。

「何があっても、決して泣かないこと」ヴァムタサが断固とした調子で言う。「典礼の準備を始めよう」

ヴァムタサはしゅうと、つまりタリサイの父親で、ムタサ氏族の長だ。荒れ地を開墾し、より遠くの世界に向かう途中にここを通り過ぎる旅人に、水――つまり酸素と水素 ――を売ることによって、この一族は財を成した。

#

一週間前に着いたばかりで、十八時間周期の日々に慣れるのは難しかった。夕暮れは始まってしまえば短く、ほんの一分ほどで過ぎ去ってしまう。蛍光ランプの頼りない光が、昼から夜への移り変わりを告げる。
フルングウェ多目的地上シェルターのベッドで、私は横になっている。奥歯が痛み、細かく鋭い破片へと砕け散ってしまいそうな感じがした。外の静けさが体の隅々にまで重くのしかかっていた。抱きしめてくれるはずのタリサイはいない。彼女は捜索班の男達と一緒に出かけていて、今は回収チームとして無線で連絡を取り合ってい る。私の夫なのだから、彼女はそうする義務がある。この地は厳しく、容赦がなかった。ここには絶対に帰ってくるべきではなかったのだ。

どうすることもできなかった。何の望みもなかった。

泣いてはだめ。

#

目覚めると夜明けの少し前だった。夫の腕が胸の上にあった。重く力強い腕。捜索の後で、彼女は汗の匂いがした。普段はいびきをかくのに今晩は静かで、眉間には少し皺が寄っている。

私はそっと腕をのける。

フルングウェ多目的地上シェルターH U T Sのカーボン製の壁はモシオトゥニャ[1]ヴィクトリアの滝の現地での通称。の観光客向け市場で買ったトンガの工芸品で飾り付けがしてあった。葦製のルセロ[2]トンガの飾り皿。と籠で、出産適齢期を過ぎた既婚の女性が織り上げるものだ。ケレスの岩を研磨した抽象彫刻もあった。反対側の壁にはソト族の赤いブランケットが掛けてある。

ベッドから忍び出て、スーツを着てエアロックに入り、酸素タンクがフルに充填されていることを確かめる。CO脱炭素化装置デカーボナイザーを使えば、最大で十五時間分の空気があることになる。息子のアネスは私より肺が小さいから、それよりは少し長く持つはずだ。

エアロックが耳障りな音を立てて閉まった。タリサイを起こさないよう祈りながら、外に出る。

球場のライトのように高くそびえる照明が、一帯の居住区を照らし出していた。原野にHUTSの建っている広い区画がいくつか並んでいる。それぞれのHUTSはドームで覆われていて、ズールー族の小屋のように小さな丸い窓がついている。この一帯にはHUTSが十五室 (一つは医療用で、二つは緊急用だ)と倉庫がいくつかあ り、はるか遠くには私たちが食事を取る広い食堂が見える。複合施設の向こうに目をやれば、峡谷じゅうに何百もの居住区画が散らばっている。皆、ワイルドベルトで一山あてようと目論んでいるのだ。

弱い重力に身体を適応させて歩くと、左右にバウンドしながらゆらゆら進むような格好になった。コツは前に突進するように身体を動かすことだ。そうすれば、モーメントが身体を地面に平行な向きに運んでくれる。何度か高く跳びすぎることがあると、自動制御の上向きスラスターが薄くガスを噴射し、私を地面へと押し戻した。

地面は岩だらけででこぼこしている。風のないところでは、何年も前の足跡が手つかずに残っている。

私はムタサの祖先の墓を通り過ぎた。簡素な石の墓標が載せられた、モグラの巣のような塚。その下には、凍った土の中で死者たちが眠っている。

そこから少し離れたところに彼らの農場があった。大気と温度、水分量が管理された巨大な温室によって、この不毛の大地はオアシスへと変貌していた。彼らはレタスやタマネギ、トマト、キュウリ、小麦、トウモロコシまで、望みのままにあらゆるものを栽培していた。こんなことが可能になるのは、ケレスの土壌が豊富な炭素と有機物を含んでいて、生命に飢えているからだ。ケレス――農業の神の名を持つこの星は、その寛大な恵みによってワイルドベルトの鉱夫や、火星やその遥か向こうのコロニーを養っていた。

私は息子の小さな足跡を探し、水場へと続くそれを見つけ出した。足跡は一緒にいた人間にかき消されていたり、ある時は彼らの大きな足跡の中にすっぽり埋まっていたりした。子どもたちはよく、水上で遊ぶためにここへやってくる。重力が小さいので、子どもならちょうど地球のバシリスクのように水面を走ることができるのだ。

八年前、私は生命の歌を歌い、私の手であの子をこの世界へと編み込んだ。生理が来なくなると、リネンと宝石でできた嫁入り道具を持って母が私のところにやってきた。私たちはまっさらなダブルベッドの上で顔をつき合わせ、足を組み合わせて歌った。

ンディノウンバ、ムソロ、ワコ
ンディノウンバ、マジソ、アコ
ンディノウンバ、ムヒノ、ヤコ
ンディノウンバ、チプフヴァ、チャコ

ンディノウンバ、ツソカ、ジャコ
ンディノウンバ、ツヴィジャ、ツヴァコ
ンディノウンバ、ドゥンブ、ラコ
ンディノウンバ、カンボロ、カコ
ンディノウンバ、ルリミ、ルワコ
ンディノウンバ、ツウグンウェ、ツワコ
……

三時間かけて、私たちはあの子をこの世界へと歌い上げた。それぞれの節は『私は創る』から始まり、生み出したいと願う部位の名前がその後に続く。私は編み針を持つように人差し指と親指を合わせ、アネスの原子一つ一つをこの世界へと編み上げるまで、お腹の上に手を踊らせ続けた。

生命の歌は大切なものだ。全き状態で生まれてくるためには、身体のあらゆる部位が願われ、歌い上げられなくてはならない。あの子と喋るときにはいつも、歌への返事が聞こえていた。私に話しかける声の中に、遊んでいる時の笑い声の中に、病気になった時に私が拭いてあげた、あの子の涙の中にも。

けれど、ビムハの池の浅瀬に立っているいま、あの秘密の二重奏は失われてしまっていた。代わりに聞こえるのは、静寂と悲しみだけだった。

夜明けはまるで暗室から明るみへと一歩踏み出すようで、始まってしまえばほんの一分ほどの長さしかない。長い影が足を包み込む。黒い空に浮かぶちっぽけなオレンジが、ここでの太陽の姿らしい。
「どこに居たんだ」タリサイが言う。居住区の端で私を待っていたのだ。「みんなお前を探してる」

私は彼女に近づき、抱きしめた。けれどぶかぶかの宇宙服越しでは、彼女の暖かさを感じることはできなかった。何ひとつ。

宇宙服を脱ぐと、ゆっくりとしたリズムのドラムの音が食堂から聞こえてきた。パング、パング、パング。ここの空気は冷たすぎる。何かが足りない。塵や花粉や、土の香りがここにはない。

ドラムに合わせて、手拍子が聞こえる。ブウ、ブウ、ブウ。

女たちが叫び声を上げる。

食堂の椅子とテーブルは床から取り外され、隅の方に積み上げられていた。険しい顔をした男たちと女たちが互いに隔てられて座っている。タリサイは男の方に加わった。彼女の身体は女性のものだが、彼女は男の先祖の霊魂を宿している――容れ物として彼女の肉体が選ばれたのだ。だから彼女は男だ。

私は腰を下ろし、脚を片側に揃えて座る。

泣いてはだめ。

正面のホログラムが、本物そっくりのニャティ、つまりバッファローを映し出している。このクランのトーテムだ。名高く、高貴な血筋。私のはサマイタ、つまりシマウマで、トーテムポールの一番下というわけではないけれど、このクランよりはもう少し控えめな立ち位置にある。父親と同じように、アネスもニャティだ――あるいは、だった。血筋は父から子へと引き継がれる。母親は他人のようなもので、その血筋は意味をなさない。

正面にはチュスンバンジがいた。上裸で、腰にはまだらの牛の革を巻いている。かかとにはホショ[3]ジンバブエの楽器。が括りつけられていて、動くとカラカラと音を立てた。彼はドラムのリズムに合わせて前後に身体を揺らす。頭には羽付きの頭飾りが載せられている。

食堂は熱気に満ちていた。

クリスティーンが私の身体に手を回し、私は彼女の肩に頭をもたせかける。私たちはチュスンバンジに、彼のトーテムの名前で挨拶した。彼はサバンナの草原を静かに忍び歩く、血塗れの草食動物だ。死の化身。超えられないはずの断絶。

彼は嗅ぎたばこを一つまみ取って深く吸い込み、何度かくしゃみする。私たちは手を打ち合わせ、叫ぶ。

「スヴィカイズヴァカナカ、ヴァセクル」
 
視界の端で、タリサイが拳を握りしめ、何事かつぶやくのが見える。彼女は抗っているのだ。彼女の先祖の霊魂が彼女を訪れ、入り込もうとしている。だが今はそのための儀式ではない。タリサイの霊魂は精霊の世界にとどまり、悪霊から私たちを守らなくてはならない。今日訪問を受けるのはチュスンバンジだけだ。

クリスティーンが私を部屋の後ろに連れていった。私たちは瓢箪を頭の上に乗せて運んだ。地球だと不器用で粗相をしがちな私でも、低重力下のここでは瓢箪を頭の上に載せたままチュスンバンジの足元まで運ぶことがで きる。私たちは跪き、手を叩き、立ち上がって女たちの側に引き下がる。

太鼓役が手を止める。彼もまた動物の皮を纏っている。彼は瓢箪を両手に持ち、跪いてチュスンバンジに手渡した。だがチュスンバンジは頭を振り、それを退けた。太鼓役は精霊のために一滴床に垂らし、もう一度ビールを手渡した。今度はチュスンバンジもうなずき、受け入れる。贈る側と贈られる側の手が重なるとき、私たちは手をたたき、男たちは笛を鳴らした。

祝福されたビールがチュスンバンジから太鼓役へと返され、贈る側と贈られる側が入れ替わった。太鼓役は今度は男たちの側にビールを渡した。喉を乾かせた二十人の男たちが、それを一口ずつ回し飲んでいく。一人か二人、横の居住区画から来た鉱夫の姿もあった。金の価格は暴落していた。アステロイドでの産出量が多すぎて、金は

市場に溢れるようになっていた。もうすぐ彼らは器具を まとめて別の場所に移動し、他の資源を採掘するのだろう。その資源が値崩れを起こすまで。

チュスンバンジを訪れた先祖は私たちにこう告げた。曰く、アネスは元気に生きていて、ンジュズのもとで暮らしている。私たちは決して泣いてはいけない。もし泣けばンジュズは怒り、彼を殺してしまうだろう。私たちはンジュズを鎮めるため、生贄をささげなくてはならない。もし上手くいけば、アネスは偉大な治療者にして預言者である呪医ンナンガとなって戻ってくる。彼女は霊界からの比類ない恩寵をアネスに与えてくれるはずだ。

ケレスに牛はいないけれど、食肉用のウサギとニワトリならたくさんある。

生贄はオスの黒ウサギになるだろう。

#

夜になると、歯がひどく痛んだ。私は裸でベッドに横たわっていた。少しでも動くと、神経が刺し貫かれるような気がした。

丸窓から見えるのは紫がかった緑の空だ。グロテスクなオーロラのようなもので、太陽宇宙線と、その唯一の障壁である人工磁気圏の戦いの前線を示している。これなしには、私たちは少しずつ電子レンジに掛けられるようにして死んでしまう。

私はこの年に一度の巡礼が嫌いだった。地球に帰りたかった。

チリモ、つまり作付けの季節が来ると、私たちは楽な事務仕事を離れ、荷物をまとめてクムシャに向かい、農業を手伝う。私たちには皆二つの故郷があるが、本当の家は祖先が埋葬されているクムシャのほうだ。私の本当の家は地球上、マンヘンガ[4]ジンバブエの地名。にあり、タリサイの家はこの荒涼とした世界にある。タリサイは私と暮らすために、ここでの暮らしを捨てたのだ。

それでも、表に出さないようにはしていたけれど、ここに来るたびに私はこの土地のことが嫌いになっていった。

この歯痛は磁気圏のせいに違いなかった。医者はありえないというけれど、この痛みは地球にいるときには絶対に起きない。痛み止めは使わないと決めていた。私は息子と同じ苦しみを味わいたかった。一人ぼっちで、暗闇の中で怯えていたかった。

泣いてはだめ。

星が一つ、空をすばやく動いていった。ケレスの三つの衛星のうちの一つだ。

タリサイが部屋に入ってくる。硬く、彫像のような身体がゆっくりと動き、白いベストの上からでも鍛え上げられた胸筋の盛り上がりが分かる。

「もう帰ってたのか」彼女は責める風でもなく言う。

「あんなまじないであの子は帰ってこない」私は答える。

「訳のわからない想像上の生き物があの子をさらったなんて、本気で信じてるの?」

「あの子はいとこ達と一緒にいた。あいつらはケレスのベテランだ。ほぼ毎日、あの池の上を歩いてる。あそこで溺れるなんて誰だって不可能なんだ。重力が弱すぎて、水の表面張力を超えられない。それなのに、アネスはなぜかそうなった。多分スラスターがおかしくなって水の側に押し込まれたんだろう。今、原因を調べてる。あいつらはグループで歩いていて、あの子は少しだけ遅れて た。みんな対岸に着いたのに、あの子はいなくなってしまった。原因は分からないが、トランスポンダーも作動していないらしい」

「どうして面倒を見てなかったの。あの子は地球の子どもなのよ」

「奴らはちゃんと――」

「私の子どもを返して!」私は彼女に叫ぶ。

「やれることは全部やってる。捜索隊はいくつも出てる」彼女はため息をつき、声を落とす。

「悲しいのは自分だけじゃないんだぞ。俺だってあの子の親だ」

「そもそも子どもなんて欲しがってなかったくせに」

「とうとうその話か。大学時代のたわ言を今頃蒸し返すつもりか?」

「自由になりたいって言ってたじゃない。金星、エウロパ、タイタン、冥王星、そのさらに向こうまで探検したいって。あなた、自分が何回おむつを替えたか覚えてる? 本当は、どこか別のところに居たかったんでしょ」

「でもここに残った。お前を愛しているから」

頭に浮かんだ刺々しい言葉を口にするより先に、私は彼女にのしかかられ、身動きが取れなくなり、乾いたままのヴァギナに荒れた指が突っ込まれるのを感じた。獣のように引っ掻きあい、噛みつきあいながら、私たちはやけくその愛を育み、それが終わってしまうと、ベッドに崩折れ、疲れ切り、汗にまみれたままそっぽを向いて 眠った。

#

夢の中で、私は黒い水に沈んでいった。油のようにどろどろとした水。銀色に輝く地球の月が顔を照らしている。どうして私たちの月には名前がないのだろうと思う。 何か名前をつけてあげた方がいいのかもしれない。静かで、優美な呼び名を。

私は沈んでいく。どこまでも、どこまでも。終わりのない深淵のはるか底に向かって。

暗闇の底で、彼女に出会うまで。

ンジュズがどういうものなのか、本当のところを私は知らなかった。ある人は半身が女で半身が魚の人魚だというし、すばしっこい水の妖精のような姿をしているという人もいる。息子がいなくなってから、私は意地の悪いセイレーンのような姿を思い描いていた。水夫や若い男を誘惑し、災厄をもたらす魔女。だが本当は、そのど れでもなかった。ンジュズはンジュズ以外の何者でもないのだ。

彼女は背筋を伸ばして王座に座っている。海神の娘。見たこともないほど美しい女。磨き上げられた黒曜石のように黒く滑らかな肌の上には、細かな泡がまとわり付いている。叡智をたたえた目は真珠のように輝き、緑色の髪はツァンガ河の葦のように荒々しい。
アネスはじっと動かない。裸の胸の上に、銅のネックレスを纏っている。足元には香草と卜骨、クードゥーの角や土器が見える。

ンジュズは私にうっすらと微笑む。

「息子を返してよ、このあばずれ!」私は叫び、すると水が口に、そして肺へと入ってくる。溺れながら咳き込み、えずき、もがけばもがくほど溶けた鉛が肺を満たしていく。私は必死で腕を振り回し、月に照らされた遠い水面へと近づこうとする。タリサイの顔がこちらを覗き込んでいるのが見える。

「起きな」と彼女は言う。「悪い夢だ」

天の川の無数の星が、行く道を照らしている。だがそれも、アネスの頭や額、唇、足、あの子の身体の隅々にした口づけの数には及ばない。

磁石が鉄を引きつけるように、憤怒と恐怖が私をビムハの池へと連れ戻す。

暗い緑色の空に太陽はまだ昇っていない。

波のない水面がブーツを受け止め、私は水の上を歩いた。水は柔らかく、前方にさざ波を立てながら、少しずつその姿を変えていった。黒い水面の下を、アネスがいるはずの湖底を覗き込もうと目を凝らす。水の上を歩きながら、私は生命の歌を歌った。一歩ごとに、グローブをつけた手で身体のあらゆる部分を一つずつ編み上げ、もう一度あの子を作り直していく。

岸辺にはタリサイの姿があった。真っ赤な宇宙服を着ているのが小さく見える。ヘルメットの光が私に当たっていた。彼女も悲しいのは分かっている。けれど、母親だけが感じることのできる強い痛みもあるのだ。手を振ると、彼女はそこに留まった。きっと静かに見守ってくれるだろう。

池の真ん中に着いた時、私はにせものの希望を手放すことにした。希望はゆっくりと水の中に沈んでいき、息子はもう永遠に帰ってこないのだと悟った。

あの子の魂はケレスの厳しく冷たい淵を彷徨うのだ。

私は泣いた。大粒の熱い涙がヘルメットを満たし、やがて何も見えなくしてくれた。もう一度、私を見つめるあの子の顔が見えるように。





 

訳注

訳注
1 ヴィクトリアの滝の現地での通称。
2 トンガの飾り皿。
3 ジンバブエの楽器。
4 ジンバブエの地名。
投稿日:
カテゴリー: 翻訳

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA